アートマネージメント志向


なんだか「イラっ」としたので書いちゃお。
http://d.hatena.ne.jp/AdamRamone/20090323/1237761508
「主体」やら「責任」やらといった疎外論っぽい用語を読む機会が21世紀にあるとは思わなかった。「アート」「アーティスト」「主体」とアートっぽくとんちんかんな用語法で書かれているが、しつこく鬱陶しくねちねちとどこまでも続いた小田切秀雄らの「戦後主体性論争」とかとは無縁なようだ。余りにもあっけらかんと阿呆っぽい。
「アーティストは人だから見たり見られたりするかもしれんが、アートって物だろ? 物は見ないだろ。物が見たり喋ったり喰ったりするかよ」とかいったあたりで既に苛つくのだが、この程度のとんちんかんは「アート」関連ではご愛嬌か。パスカル古代ギリシア人だったりするんだもんな、アートマネージメント業界では。
とんちんかんはなかったことにして、論旨だけ要約するなら、「芸術家だって見た目を気にしなきゃ。照沼ファリーザは見た目がいいよね」って程度のことだろう。実にごもっともな言い分だが、無意味な提言でもある。そんなことはみんな知ってる。
アートマネージメントの一環として、この手のことを提言したいなら、寧ろこの手の正論の後の「マネージメント」のノウハウを用意して欲しいもんだ。みんな知っているが、実行できてないだけなのだから。
照沼ファリーザ松井冬子並の容貌を完成させるためには、どこの病院で、いくらぐらいの予算で可能なのか。美容整形に留まらず日々の服飾にかかる費用も一切合切合算して採算に合うのか。投資の回収がどの程度の確率で可能なのか。また回収できることを前提するならば、その投資はどの程度の利回りになるのか。この程度のことは書いてもらわなくては、アートっぽく阿呆っぽい上に、無能な正規雇用のゴタクっぽく退屈なだけだ。
幼稚な主体性論争やるくらいなら、「ヤバい経済学」の視点でやってくれ。


しかし、学校で、美学でも美術史でも実技でもなく、アートマネージメントを専攻するってどんなことなのかね? 吾妻光良がライブのMCで「この前、『プロデューサー志向なんです』っていう若い奴に会った。プロデューサー志向ってなんだよ!」とかって言ってたが。「アートマネージメント」専攻ってなんだよ? 画商の見習いってことか? アートでは投資を回収できないって算盤はじいたゼロアカくんたちが、マネージメントで主体の責任とか口走ってんのかねえ。「マンガ研究」とか「写真研究」とか名乗った連中が90年代には量産されて、就業活動に必死だった時期があったが、研究職の飽和やら公共文化施設の統廃合やら出版産業の逼迫やらで、今度は率直に「マネージャー職」へとその手の手合いが流れ出してんのかもな。大して実害はないんだが、不愉快なんだよね、この手の連中。
この手のが口走る「主体の責任」なんてものは、 なんのかのと「謙虚に素直に働くように。失敗を恐れず挑戦して経験を得よ」とかいう起業家っぽい訓示に帰結するぐらいがせいぜいだろう。言い換えれば、「アーティストなら謙虚に素直に無料奉仕せんか! 失敗したら、そりゃ主体の責任だろうが」ってことなんだろう。で、自分はマネージメント担当なので"責任"を持って確実にマネージメント料を集金して、「プロデューサー」とかで"主体"として名前を売って、コネを辿って美大の准教授かなんかの安定職に潜り込みたいってことか。
ごにょごにょ長々とスジの通らないことを偉そうに喋るんだが、難癖付けて不安を誘い小銭をむしり取りたいだけってことだ。
反論されるとボロが出るから、「批評」「評論」は名乗らず、「研究」「マネージメント」等を言うような輩なんだろ。



ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]


追記:
web上に「主体性論争」についてのまとまった論文があった。
岩佐茂「主体性論争の批判的検討
かなりコンパクトにまとめてくれてるけど、やっぱりよくわかんないやねえ。なにがわかんないかっていうと、なんでこんなことを何年も何年もみんなが必死になって論文書きまくってたのかってこと。どうでもいいような気がするんだが、そうでもなかったのだろう。なんでそうでもなかったのか? が相変わらず全然わからん。二十年前の学生時代(この論文が書かれた頃かな)にもわからなかったが、二十一世紀になってもやっぱりわからん。小田切秀雄の辺で終わりでいいような気がするんだが。梅本克己とかがいかんのかな。へんちくりんな哲学用語を持ち出すもんだから、左翼知識人たちの情動を煽ったのか? わからん。