うだうだをめぐって


おそらくはBC1000年の頃よりつづく仏法講話の因果すなわち意味不明のままに読まされること若しくは意味不明のまま語り流されたことを聴かされることの強制化が鎌倉末法時代を通過してなお千年近くを生き延びwebの時代にまで至った人類に継承された撞着と拘留の典型的有り様なのだと自分を納得させようとするものの、どこかで廣澤虎造が唄い上げていたように莫迦は死ななきゃ直らないという真理とも蒼茫ともとり得る唸り声の彼方に、レーモン・ルーセルのアクロバチックでありかつ大げさに転倒してみせるピエロ的でほぼ意味不明な言葉の羅列がかろうじてストーリー展開に転じる顛末を思い浮かべてしまうのだが、果たしてゴダールと神学とがルネサンスを介して語られる事象なのかの詮索に頭を絞ったところでそれらの文言を書き付けたワープロソフトの付随機関である筆者なるものの素養の枯渇具合からおもんパかれば知ってる事を並べてるだけなんだから読み飛ばすしかないんじゃないの?という「捨象」という神々しき生活の知恵に発する成年としての義務が浮き上がるのみであろうが、「捨象」=「適当に読み飛ばす」という神業をもってするなら「うだうだ」と擬音化するしかなかろうと結論するよりを他にすべを知らず、音読したところで意味を構成しないこれらが文を、そこはそれ「聖カウンセラー」の如き寛大さでもって忍耐強く辛抱強く我慢強く懇切丁寧に付き合うならば、「わーい、僕の言うこと聞き入れてくれた!とっても紳士!男らしい!いろいろ書いちゃってゴメンね(笑)」という程度の意味とストーリーが拾い出されるのが必定たる以上、読んでいる途中から読者たる自分の存在意義に疑問が生じ(何やってんだろ、オレ?)、これらの文言を叩き付けた主体たる人間の講義を必須として受講しなくていい自分の身の安寧を言祝がずにはいられれれれれれれないとはいえ、「こんなもんに毎週付き合うのなんて拷問だよ。」と性急に結論づけずに、ある種の趣向の持ち主には「言葉攻め」という性戯があるとのことだから、架空のSMクラブに置いて施される九十分ノンストップ「言葉攻め」の一種だと思えば思えないこともないだろうと妄想の世界に身を委ねそうになる我が身に三度めの覚醒を呼びかけ、普通に「金返せ!無意味なもん聴かせるな!金寄越せ!カウンセラーじゃないんだ、私たちは!」の声を上げ事務局へ殺到して抗議に及ばないような学生たちにはお似合いの「うだうだ」なのかもしれないと思い至り、そのような学生たちの「学ぶ」という本分を喪失した怠惰な有り様が、この手のキッカイな言葉たちの野放しを拡大していることは確実だという結論に行き着く。
故に、
言わなきゃ。「センセーっ! 何言ってるか、わかりませーん!」「センセーっ! 短く言い直してくださーい!」「センセーっ! つじつまがあいません!」





付記:

なんなんだろね、一体。写真関係なのか美術関係なのかしらんが、を入れたくなる文章って多すぎる。いきなり埴谷雄高とか西田幾多郎とか読んだ国語の成績の悪い高校1年生が書くような文章だよ? あんなの。なんで四十すぎまでそのままなのかね。通信教育でいいからとりあえず誰かに添削して貰って矯正して貰いたいもんだ。ここまで来ると、言語障害なのか、単に国語能力が低いのか、わからん。