小林秀雄と再生産


高橋悠治による小林秀雄についてを聴いて。

「音楽の生産を考えると、小林秀雄は役に立たない」という高橋悠治の正論もわかる。確かに、製作する上では役に立たない。しかし、「再生産」を考えると絶対に必要なものだ。「美しいと言われているものを感じたいなら、身銭を切って生活をかけて身体ごと判断して行くしかない。さあ金を出せ。品を買え」と。

「芸術を愛でたい」って連中にこういう話をするとものすごく嫌がられるんだが。
「生産」は、「面白い/つまらない」の身体感覚で突っ走る方が効率的だ。
だが、突っ走った後っていうのも必要なことなのだ。
「凄いものを作った」、そこで終われるなら、楽だが、そのあと、「どうだ、凄いだろ?!」を言って回る必要がある。作ったのと同じくらいの手間をかけて。
さらに、その後に、「凄かったでしょ? 次をやりたいから、とりあえず、こいつに金を出してください。おねがいしますよぉ、良い仕事しますよ? な?」とたかる必要もある。

「花の美しさはない、美しい花があるばかりだ」の後に、「だから、財布をひっぱりだして、美しい花を買え。クレジットもご用意させていただいております」とつづく。
で、金をたかられると、買い手ははなんだかんだと次の製作にまで口出ししたがる。そこで、「美は沈黙を強いる」とカマして黙らせる。
「芸術の再生産」を視野に入れるならば、小林秀雄の言説は、実に実践的で有効なものだ。

高橋悠治にしろ、「小林秀雄先生をくさす高橋ユージとかという小僧がおるらしいわい。イッヒッヒ! わしも小林一党には煮え湯を飲まされて常々むしゃくしゃしておるところじゃった。愉快愉快! どれ、贔屓にしてやろう。どんなバッハを弾くんだ?」って部分で、「再生産」が赦されてる訳だし。



高橋悠治エルンスト・ブロッホの名前をあげていた
ブロッホにしろ、彼ら西欧マルクス主義者たちは、下部構造を無視して、それぞれに孤立しながらも、それぞれの仲間内にしか通用しない難解な術語でもって、上部構造について神秘的に語り続け、その挙げ句に失敗した。
西欧マルクス主義を再利用するためには、下部構造の言葉を放り込む作業が不可欠。
高橋悠治にしろ、隠語で隠蔽されて格好つけまくった上部構造の言葉でのみ話すのならば、下部構造の視点(=「下世話な」「資金繰りの」!)をさしはさみつつ、耳をかたむけねば。




鬱陶しい阿呆どものせいで、「盗用」についてもいろいろ考えている。丸田祥三の話ではなく、僕に身近な写真家たちの話で。
無論書く気はない。
当事者同士で訴訟沙汰にもならず、それぞれ生活にトラブルを抱え、かつ、鬱憤をためながら、それなりに無難にやりすごして平和理に共存しているところへ、「パクリだ!」と騒いで喜ぶ阿呆どもを呼び込むことは無意味だから。
よって書かない。