空気は読むべきものではない


やはり写真家は、傍若無人でいるべきなのだ。
若しくは、
傍若無人でいられた人間だけが写真家だったのだ。
「一品展」を見渡しながら、思った。
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作品には固有な大きさと品質が必要であり、それらはいかなる条件が出されようとも崩す事はならない筈だ。
表現の自由」が正論だった時代はいつの事だったのか?
つねにすでに失われていた「表現の自由」。
一度くらい「自由権」がなんの留保もなくまかり通る瞬間に立ち会いたいものだ。
「他人の迷惑にならない限り自由」とうそぶかれる文化統制。
法的な表現規制ももちろんあるのだが、それ以前の統制が色濃い。
「不快!」を錦の御旗に降り掲げて、喫煙の全面禁止、猥褻表現の完全撲滅、抗議行動の完全自粛を画策し、「KY」などと聞こえよがしに囁くひそひそ声たち。
あれがわれわれにのしかかる「統制」の本体だ。
偏在し普遍化し蔓延ったひそひそひそひそと密輸される女声たちがでっちあげた、「モラル」を名乗る意識へ向けての水も漏らさぬ徹底統制。
あれらを突き破る事こそ、「写真家」に求められた重責なのだ。
その重責をクリアしうる者だけが、「写真家」を名乗るにたるのだ。

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なにより、グループ展をめぐる唯一の守り事だった「大きさ」の規格すら守ろうとせずに、自分のスタイルを死守した鈴木竜一朗のモノクロパネルに敬服せずにはいられない。「空気」どころか「文字」を読むことすら放棄して守り抜かれた彼の突破への姿勢が眩しかった。
われわれもあああるべきだったのだ。
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あと、窓に貼付けられたなんだかわかんない昭和の若い「アベック」が車の前で写した写真の絵はがき! 作者名すら記されていない訳だから作家名で語るべきですらない、なんだかわかんないへんなもの。 展示をきちんとする気がないどころか、既に写真を撮る努力すら放棄したへんなもの。「展示をめぐる『ちゃんとしよう』という努力をやめてしまおう。美術とは、人びとが集ってうだうだするための口実にすぎないのだから」というのが、基本コンセプト(!)であった「一品展」。もうひとつのあるべき姿が、あのちっぽけな写真の絵はがきだったのだろう。
われわれもあああるべきだったのだ。統制に首をすくめるくらいなら、もう何もしないことを選んでしまえばよかったのだ。

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げっ歯類めいた女子たちが被害者を装って発する警告禁止命令のひそひそ声なぞ、蹂躙してしまえば良いのだ。
空気は読むべきものではない。
切り裂くものだ。