「黙示録」vs「黙説法」


 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐にあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。ところが、わたしは、主の日に御霊を感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

ヨハネの黙示録」第一章九節〜十節

一方、ダムタイプのリーダーである高谷史郎とのコラボは、99年に初演された坂本龍一のオペラ「LIFE」において、映像監督を高谷が担当したことから、始まっているが、05年には、京都の法然院で方丈の庭を臨んだラップトップと映像による実験ライブがあり、また同年京都造形芸術大学でのスーザン・ソンタグ追悼ライブで再び共演している。このソンタグ追悼ライブは、A・ペルトの「Spiegel im Spiegel」に、坂本が様々な音を重ねながら、ソンタグのテキストの句読点のみを引用した映像が絡むというアイデアで、テキストの文意はほとんどオフになる黙示録的展開ながら、テキストの句読点による息使いだけが、視覚的リズムとして現前されるという、驚くべき洗練とそぎ落とされた透徹の美学が表現されていた。

「充満する厚みなき厚み──坂本龍一+高谷史郎新作インスタレーション「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」」
山口/山口情報芸術センター 阿部一直 
http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/ak_0706.html
(「わたしのなきごえ?、ひめい?」経由 http://d.hatena.ne.jp/uzi/20070709
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 内原さんのコメント欄にも書いたが、この「黙示録的展開」という言葉は、用法として間違っている。いや、用法も何も、「ヨハネ黙示録」とか読んだことないのか、この人は? 「ヨハネ黙示録」の原書はなんでもとても凝ったギリシア語で書かれているのだそうだが、読み手がよくわかんなくなる程に修辞をちりばめまくって激情的にアジテートしてる「黙示録」を読んでなお「句読点のみ、テキスト本体なし」の映像を「黙示録的」などと形容する日本人なら、学校へ入り直して現代国語の勉強をやり直した方がいい。まあ、おそらくは、ただ「黙説法」と書くところを間違えただけなのだろうが。
 しかし、間違えただけだからといって、赦してやる訳ではない。
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 黙説法=レティセンスについて。

岡崎:センチメントとは、その主体がいなくなって誰もそれ以上遡行して理解することができない、かって確かにあったであろう不在の感情への態度ということになる。いわば何も言わずに死んでしまった者の感情を知るというような。けれど、不在の対象=感情を知り得ないという条件にあいては、残された誰もが同じ条件にあるということにもなる。(・・・・・・・)たとえば高村光太郎の『智恵子抄』で「千疋屋のレモン」を見て、もうこの世にはいない智恵子がかつてこのレモンを見て微笑んだことを思い出す、しかし今となってはその笑みの理由は分からない、こうした話にみんな泣く仕組みになっている。坂口安吾が『文学のふるさと』で引く『伊勢物語』もそうですね。夜露の光を「あれは何?」と女が聞いたとき答えておけばよかった、と夜露を見て男が嘆く。それを聞いた女はもう食われて死んでいて、答えられなかった質問だけが欠如のまま残る。食われた女の気持ちは、もはや遡行出来ない不在になっている。それを理解できないというその男の条件は、しかし読み手の置かれている条件と同じである、と感情の欠如がセンチメントを共有させる仕組みになっている。
浅田:一種のレティセンス(黙説法)ですね。何も言わないことによって暗に分からせる。
岡崎:(・・・・・・)具体的な当事者が死んでしまった、すると、その痕跡は当人にはどうでもよかったのかもしれないけれど、その主体が消えていることによって大きな感情的な意味が付与され、それ自体が美術作品になってしまう。
磯崎:まあ最近は建築も美術もそればっかりだな。
岡崎:ええ、さんざん繰り返されています。
(「批評空間」2002 ?-3、22頁〜23頁)

「さんざん繰り返されています」と2002年に言われている技法を2005年にも繰り返し使っていたまでのこと。「ダムタイプ」のリーダーなのだから、「黙説法」で一環してやっていてもおかしくはないと言えば、言える。言えば言えるが、「具体的な当事者が死んでしまった、すると、その痕跡は当人にはどうでもよかったのかもしれないけれど、その主体が消えていることによって大きな感情的な意味が付与され、それ自体が美術作品になってしまう。」と岡崎乾二郎によって指摘されているそのものの方法が、スーザン・ソンタグにも応用されたことは、やはり指弾しておくべきだろう。
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 まず気になるのは、「山口/山口情報芸術センター阿部一直」の文章において、意図的だろうが「無意識的」だろうが、「黙説法」が「黙示録的」と言い間違われて使われていること。
 意図的にせよ、「無意識的」にせよ、「黙示録」という鼓舞と激励の言葉の塊の意の言葉を、「黙説法」という「暗に示す」という言葉の意で使っていたこと。
 「黙示録」という「鬱陶しいほどに過剰な修辞を使い、うるさいほどに煽り立てて無理にでも鼓舞して立ち向かわせる」方法についての流行らない言葉を、この10年余、ニッポンでさんざん使い古され、今なお使い続けられている、「暗に示す」(暗に示されたが故に「黙って事に処す」とつづく訳だが)という意味に置き直そうとしたこと。

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もうひとつ。
 その「ダムタイプのリーダーである高谷史郎」よる映像が、「スーザン・ソンタグの追悼」であったこと。
 なんでスーザン・ソンタグの追悼に「黙説法」なのさ? 彼女の持ち味って、「言いにくいことを言いにくい相手に向かってはっきり言う」ことじゃないの? それを終生つづけたが故になにかの存在であったような評論家だったんじゃないの? 「黙説法」によって、スーザン・ソンタグのような「ラッパかラジカセ並みの大音響で論難を浴びせつづけるうるさいばあさん」まで、「不在の感情」をくすぐる感傷の対象にしていまう。死者への冒涜? いや、単なる不勉強な安穏から来た怠慢だろう。「黙説法」と「黙示録」を間違うような。しかし、そのような態度こそ、スーザン・ソンタグが口をすっぱくして罵りつづけて来た「敵」であったことも確かな筈。
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美しい国ニッポン」の穏やかな感傷は、スーザン・ソンタグのテキストまでをも、穏やかな「美しさ」の中に取込もうとしている。「トンマ」や「ふぬけ」と見紛うような「美しき感傷」の中に。





http://www.susansontag.com/