ベンヤミン卒読「複製技術時代の芸術作品」レジュメ
七章
語義)
駆逐:(くちく)追い払うこと
退却:(たいきゃく)しりぞく事。負けて後退すること。
追憶:(ついおく)過ぎ去ったことを思い出すこと。
憂愁:(ゆうしゅう)憂鬱と哀愁。心配や悲しみで心が沈むこと。
比類:(ひるい)くらべるもの。たぐい。
当を得る:(とうをえる)道理にかなっている。
証拠:(しょうこ)証明の根拠。事実認定のよりどころ。あかし。
瞑想:(めいそう)目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。
自明:(じめい)何らの証明を要せず、それ自身で既に明白なこと。
要約)
写真によって、
展示的価値が
礼拝的価値を駆逐しはじめる(1839年〜)
↓
でも、
礼拝的価値が無抵抗に退却した訳ではない
↓
礼拝的価値最後の砦=「人間の顔」
(老婆心ながら。21世紀の話じゃないことに要注意。まあいないとは思うけど、だからと言って2009年現在もそうだっていうんで『人間の顔』の連作とか撮らないように)
遠方の恋人や故人の追憶
(遠くにいる、或は死んでしまった恋人の追憶)
↓
映像の礼拝的価値の最後の避難所。
↓
「人間の顔のつかのまの表情となって、初期の写真から、これを最後としてアウラが手招きする」
→顔の表情の中を、「アウラ」が最後の棲み家にする。
(→ゴキブリにとっての冷蔵庫裏、ネズミにとっての下水道天井裏、7ミリ以下の昆虫にとっての紙コップ式ジュース自販機、犯罪者たちにとっての西成等)
↓
しかし!!!
写真から人間が姿を消すところで、
展示的価値が礼拝的価値に全面勝利する。
↓
アジェ(1900年前後のパリの街路の無人の写真)
↓
「犯行現場のように街路を撮影する」
=犯行現場には人影はなく、間接証拠を作るために撮影はなされる。
=「写真は歴史過程の証拠物件となりはじめている」←?
↓
ここに(どこに?)
隠れた政治的意義がある。
そこでは、
写真は、
・特定の意味で受け取られることを求めている。
・自由に瞑想をめぐらせることはふさわしくない。
・見る人を不安にさせる。
↓
(故に)
人々は、
「それに近づくためには特定の道を辿るべきだ」と感ずるようになる。
↓
同時期、
写真入り新聞が道しるべを立てだした
(→間違ってたかもしれないけど、道標は道標)
↓
説明文が不可欠なものとなった
(「写真の説明文」は「絵画の標題」とはまるで違う意味を持つ)
(話かわって)
グラフ雑誌の写真を眺める人→説明文から受け取る指示
より
映画を見る人が受ける強制の方が全然大きい。
↓
映画では、先行した一連の映像によって決定づけられる。
(テロップではなく)
☆ここまでが、第一部。
八章以下が第二部。
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