ざまあみろ



☆「10代に何をやっていましたか?」

☆ある種、確信を突く問いだと思う。四〇になって知るが、10代の後半辺りですべてが決まっている。あとは、ほんとにあとづけの付け焼き刃にすぎない。だって、出て来ないんだもん、それ以後の学習記憶なんて。

☆さて、僕の答えははっきりしている。
「受験勉強をしていた」。
残念ながら、これしかない。ほんとのところだ。精確には11才の頃はじまり20才の時に終わった。
恋愛も遊びも活動もなにもなかった。
アホか、と思う。が、どうにも仕方ない。そうだったのだから。
なんでそんなことをしたのか?
これの答えも、はっきりしている。そうしろと言われたからだ。

☆いや、拒否した時の「軽蔑」がいやだったのだ。「おまえは、大学にすら入れなかった。私は、司法試験を通っている、私は、女子美を出ている」。これらの侮蔑を避けるためにだけ、十年を無駄に過ごした。はっきり無駄だった。何の役にも立たなかった。自動車運転免許程にも!

☆しかし、あの「学歴」獲得のための十年が無駄だったとは思いたくなかった。
早稲田大学第一文学部卒」。
この一行を書くためにだけ、あれだけの苦渋(やった者にしかわからないのだろうがほんとに「苦渋」だったのだ!)を耐えたのだ。何がなんでも、履歴書に「早大一文除籍」をいれていた。

☆が、写真新世紀を採ったら、学歴なんてどうでもよくなった。われながら単純だが、ほんとに消えた。あの忌まわしい十年の怨念が消えた。ほんとに消えた。
 おそらくは、倍率の問題だ。早稲田大学第一文学部の倍率は、30倍程度。写真新世紀は、100倍。「ああ、僕は、100人中のひとりになれるんだ」という思いが、そうしたのだと思う。
が、そこから何年かを経過した結果を言えば、1/100 などという数字は何の意味もなかった。「1」。偏差値やら倍率やらが計測できない数字、「一番」。これしか意味がなかったのだと今なら知っている。学歴も優秀賞もなにも通じない。「たったひとり」。そのひとりに残らなければ、いないのと同じなのだ。保険はない。命綱もない。できなれなければ、いなかったと同意なのだ。
 いや、こんなことは知っていた筈だ。それに賭けていたのだ。今でも賭けている。しかし、雑音があった。それらの賭けが外れる可能性が絶対的に大きいことを知りつつ、「は! おまえの賭けは外れるのだ。賭けなかったとは言え、私の方がおまえよりは上なのだ! ひれ伏せ!」と言い募っていたのだ、ただ自分の優位を確保するために!
それが父母らだった。


☆さて、二十一世紀もだいぶ過ぎた。
早稲田大学第一文学部の価値がだいぶさがった。今の偏差値なら、僕でもたいした苦労なしに入れる。 元来がそのくらいの学校なのだろう。あの当時バブリーに高騰していただけの話で。
写真新世紀の相対的価値も下落した。
諧謔ではなく、これらのことが、本気で嬉しい。 「僕の価値観はまちがってなかった!」と。
しかし、自分の価値観に従うことなぞできる筈もなかったのだ。なにがなんでも偏差値70をクリアする必要があったし、新世紀優秀賞に叶う必要があったのだ。彼女らを黙らせるために!(母を! 元妻を!)

☆40だ。最後に受験をしたのは、18から20頃のことだ。もう20年も前だ。あほか、という嘆息とともに履歴から学歴を消したのが、去年? 今日、正確な学歴と職歴を足した。これがニッポン国が下した僕の学歴であり、僕が身ひとつで作った職歴だ。
「どーだ?! ざまあみろ!」と啖呵を切れる。どーだ?! と。
母より、父より、低学歴でありながら、彼らよりはっきり高偏差値なのだ。ざまあみろ。どうだ?! これがおまえらが強いた僕の10代への返答だろう。ざまあみろ。おまえらは、子供の教育にさえ失敗したのだ。まるきり間違っていたのだ。間抜けが! にもかかわらず子供はその間違った教育方針をくぐり抜けて「人間」になったのだ。僕だって「人間」だったのだ。
ざまあみろ!




あの十年を通じて、ずっと「死ね」と思っていた。父は、一昨年死んだ。母はまだ生きている。「死ね」。今でも思っている。「死ね」。早く死ね。