”愛恋”映画


曽つて誤つて法を破り
  政治の罪人として 捕はれたり、
余と生死を誓ひし壮士等の
  数多あるうちに余は其首領なり、
  中に、余が最愛の
  まだ蕾の花なる少女も、
  国の為とて諸共に
  この 花婿も 花嫁も。
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且つ我 腕は曲り、足は撓ゆめり、
嗚呼 楚囚! 世の太陽はいと遠し!
噫 此は何の科ぞや?

(北村透谷「楚囚之詩」1889年)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/834.html
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mixiから)
星野真里主演/南Q太原作「さよならみどりちゃん

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面白かった。


☆主演の星野真理の身体が貧しい。胴長短足。張りと瞬発力を感じさせないまがりくねった貧弱な四肢。走れば貧しい手脚は、さらにみっともなく不格好に跳ね上がる。脱げば、単衣の脂肪質をまとった骨格標本を思わせる程に肉が薄く、薄い肉はゆるく弛んでいる。その癖、抱きすくめられると、無抵抗にぐにゃりと柔らかい。
 食事にタンパク質が乏しく、心底貧しかったニッポンの歴史がしっかり遺伝子に組み込まれた婦女子の身体。
 しかし、あの身体で前近代的農作業やら近代的工場労働が一体可能なのだろうか? ポスト産業資本主義時代に要求される第三次産業上の当意即妙な素早ささえ無理っぽい。だるくゆるく相手の身体に絡み付く性愛行為のためにのみあるような身体。遊女やるならあの身体なんだろ。 貧しげな身体の割に頭が大きく、目が大きく、髪が豊か。分厚い和服を着せて座らせておくと可愛げだろうし、理想的。
 
☆その貧しい身体が、ひたすらひどい目にあっている自分を甘受している(もっとソフトに表現するなら「辛い目にあって耐えている」? 同じことだと思うが)主人公ゆうこの「ぼのぼのシマリスくん体質(ヴァルネラブル? 攻撃誘発的? 「いじめる?」と問われれば、「いじめてやる、いじめてやる!」とスカボカ踏みつけてたくなる)を映像的に補完していて、もう、いてもたってもいられない程に焦燥感を煽る。松沢呉一的に「そういう奴は、ひどい目にあって喜んでいるんだから、放っておいてやるしかない」ってことだろうが、やはりイライラする。


☆考えることを止め、(創価学会的に)考えないままに向上を求めることすらも止めた若い男女たちが、殺伐とした無明のなかに互いの粘膜の潤いだけを求めつつ絡み合い絡みつづけている時代の"愛恋"映画(もはや恋愛はない)。面白かった。
 
☆しかし、「愛恋」的肉体接触に関係のすべてがあるのに、その上で「恋愛」的プラトニックな関係をも成立させようって、矛盾だろうが? 北村透谷も頭を抱えるぜ。ポスト近代的=プレ近代的肉体関係(粘膜の接触がひたすら気持ちいい)が通例化していながら、近代的男女関係(一対一。精神愛を信条に、婚姻関係で社会的に縛る)も諦め切れない人びとの話?
 漫画の方の終わりを憶えてない。映画の結末は、徳川時代的関係を受け入れる話に見えた。
 
☆岡場所の痴話話だよね。板前と仲居・遊女の痴話話。遣り手婆まで出て来た。
 スナック、カフェって、90年代の岡場所だったのかも。 してみると、秋葉系カフェ(=メイド・カフェ等)での「岡惚れ」が「萌え」か。