あの頃のミュージアム


最初に平木さんにあったのって、はじめて川崎市市民ミュージアムへ行った時。
「おまえか、履歴書に似顔絵貼って来たのって? ワハハハハハ」っていうのが第一声だった気がします。その時は「なんでこのおっさん、そんなことで笑うんだろ?」と思ったのを覚えてます。まあ笑うか。早大漫研の先輩だった細萱さんのコネでミュージアムへバイトで行くことになったんだけど、履歴書のために写真撮るの面倒だったから写真貼付のところに似顔絵描いて送ったのでした。今思えば、無茶苦茶だよな。何考えてたんだろ。
バイトとは言いながら、僕は思いっきり遊びに行ってました。
愉しかったよなあ、20年前のミュージアム。マンガがあって、写真があって、映画があって、濱田庄司の皿もあって、ひそかに安田靫彦の「草薙の剣」なんていう高い絵まであったりしました。女の子もたくさんいて、面白い人ももいっぱいいて。元妻と知り合ったのもミュージアムの訳だし。いやあ、よく遊んだよなあ。
バイトやめてだいぶ経った95年、ひさしぶりにミュージアムに顔出したら、そこらじゅうに僕が描いた落書きが貼ってあって。「・・・・仕事してねえよな、コイツ・・・」とつくづく思いましたです。
いちばん愉しかったのは、MAMA展の準備かな?
予定してた写真部門の展覧会が急に出来なくなって(借りる予定だったアメリカのコレクションを創価学会の美術館がまるごと買い取っちゃったんだったと思います)、「スケジュールにふた月穴があく! さあたいへん!」っていうんで、ミュージアムの収蔵品使って一ヶ月ででっちあげたというすごい企画でした。連日終電近くまで作業があって、最後は徹夜だったんじゃなかったっけ? 僕は合宿気分でずっと遊んでました。ホワイトボードに落書きしたり、似顔絵描いたり、写真撮ったり、女の子からかったり。
平木さんが書く筈の図録原稿があがらないあがらない。平木さんは準備期間中ずっとカンヅメにされてて、それでも終わらなくて、展示終了後ふた月くらい経ってできたんじゃなかったっけ? 個人的には、複製技術時代の芸術史の流れが、すごくわかりやすい良い展示だったと思ってます。あれから大して勉強してないから、僕は、平木さんの「MAMA展」で、近代美術史の流れを抑えてるのかもしれない。まあ、あそこまでばたばたすると身体に染み込んで歴史を覚えますです。身体を酷使するってのは大切なことなのかも。
多摩川河畔でやった「芋煮会」も想い出深いです。
平木さんの奥さんが山形出身で、映画部門の立木さんが東北大出身で、「じゃあ、山形の芋煮と仙台の芋煮をしましょう」ってことで、多摩川芋煮会をしました。竹川さんが持って来た沖縄土産の泡盛をがぶがぶのんで、すげえ酔っぱらって、平木夫人に言い寄ったような覚えがちらちら。走ってたダンプの前に歩み出て、「停まれ!」と言って手を広げて、ダンプ止めたらしいです。停まってくれたからよかったようなものの・・・。いろいろ思い出すと、なんかむちゃくちゃだよな。

それにしても愉しかったです、あの頃のミュージアム
あの愉しかったミュージアムの雰囲気を支えてたのが、平木さんだったんだと思います。
「平木さん、死んじゃったなあ」と思いながら、いろいろ思い出しました。