2009年初頭も途方に暮れている


フーコー「わたしは花火師です」を読む。
フーコーは面白いよなあ。 と、同時にフーコーが喋ることくらい全部知ってる自分がいる。 なんの新鮮みもないんだよね。 そりゃそうだ、この二十年折りに触れ読んでるのがフーコーなんだもん。 つまんねえよなあ、こういうの。 まだ読んでないフーコーって何冊かあるんだけど、読みたくない。 それにのめりこめないんだもん。 なんでかなあ。 それらを読み切ることだけが目標だったのになあ。


フーコーが、フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」について語っている。 「危機」の出現は、何かが「はじけ、割れる音」を響かせたのだそうだ。

『危機』というテクストは、普遍的な記述を目指すものだったにもかかわらず、わたしたちにとってはきわめて高度で、きわめて学問的で、それ自体においてきわめて閉じられた哲学のうちに、まったく現代的な歴史が突発的に姿を現した書物でした。フッサールの周囲で、ドイツの大学において長年にわたって全力を尽くして展開されてきた議論の周囲で、何かがはじけようとしていたのです。このはじけ、割れる音が、フッサールという哲学者の議論のうちで突然聞こえたのでした。
フーコー「わたしは花火師です」より)

「はじけ、割れる音」。
90年代末から21世紀初頭のニッポンでも「割れる音」はたくさんしていた気がする。 「ゼロアカブーム」とか「ジャパニメーションブーム」は、「割れる音」に聴こえた。 但し、フーコーが語るような華やかに危機的にはじけ飛ぶような破裂音ではなく、厨房のすみから聴こえて来る皿が落下して割れる音だ。 「ガシャン!」と陶器が割れる音の後に「失礼しましたーっ!」と悪びれることもない若い声が続く。そんな印象。 厨房に馴れないフリーターたちが低賃金長時間労働疲労から手をすべらせて皿を割るようにして、いろんなものがただただ壊れて行った。
ヨーロッパ観念哲学の「危機」の破裂音を響かせたのは、フッサールら、尖塔にも喩えるべき哲人たちの偉業だったのかもしれない。 しかし、ニッポンの文化は、ブームの仕掛人たちの周囲で、ただただ壊れて行っていた。知的作業としてではなく、単なる消費の一環として。 結果、21世紀の到来とともになにかがはじまるというよりは、単に、「日本語で考えることは無意味だ」というところに行き着いた感がある。
「ここですべての日本語が無意味になる」。
漫画アニメ歌謡曲習俗TVタレント2ちゃんねるについて何かを語る社会学者たちの言説ばかりが目に触るこの十年には、そんな時点を感じている。


「さて・・・・」と、とまどったまま、この八年を呆然と過ごして来たのかもしれない。


二十世紀末期、日本語は、web開設後のハイパーインフレの中に漱石フーコーも高校現代国語未履修なんじゃないかという低能のゴタクも一緒くたの中で、価値下落のどん底へと落ち込んで行った。
同様のハイパーインフレを、映像にも感じている。
21世紀の映像表現は、ケータイ端末であることは、ハリウッドさえも認めている。 しかし、あれはもう映像が映像とは違うものになろうとしている末期症状だろう?
日本語ハイパーインフレの末に、人びとは、中野重治と偏差値40以下の阿呆の区別もつかなくなっていた。 同様のことが世界同時進行で、映像について起こっているのだと思う。


今まで読んだ日本語を全部棄てて、一から英語でやり直すことが求められているんだろうが、どう短く見積もっても二十年はかかりそうだし、2030年まで生きる予定もないし、生きたくもない。 ドロナワ式にごくごく稚拙な英語を頼りになにやら読み書きしていくことの方が、日本語でフーコーアドルノを読むより重要なのだろうとうすうす感づいている辺りが、この怠惰の源泉なのかもしれないが。
しかし、映像インフレの方には抗するすべが浮かばないよね。 そもそも僕からしてインフレの予兆の中で映像制作をはじめたような人間だしね。


YouTubeがまだケータイに対応してない辺りで、まだ映像がなにかであるような風に残存しているのだろう。
となれば、この隙間を突いて、ケータイフラッシュ?
「三秒の集積のようにして聳え建つ十二時間の映像と言葉」を夢見ないではない。 「バベルの塔」やらWTCやらのような叡智と創造力と人事のすべてをはたいて建築された世紀の高層建築ではなく、映画「WALL-E」で無人の地球にウォーリーが孤独なルーティンの結果として築き上げていた廃棄物の塔のようなものを。



「どうすっかねえ」と2009年初頭も途方に暮れている。




わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫)

わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)