明滅するスターリン




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 昭和7年発行改造社版のスターリンレーニン主義の基礎」を買った。「面白い」とか「面白くない」とか以前に、読めなかった。伏せ字が多すぎるからだ。
 伏せ字を読む為に昭和27年発行眞理社版「レーニン主義の諸問題(全)」を買った。伏せ字は、「革命」「プロレタリア独裁」といった教条的な文言にすぎないことを知った。
 そして、今。
 昭和7年と昭和27年の区別もつきがたい21世紀、スターリンの文言は、きれいさっぱりと消え去っている。誰もが安心して「なにもなかったのだ、なにもおこらなかったのだ」と”知って”しまっている。


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 1920年代、白地の上に黒々と浮き上がり始めるスターリンの文言たち。しかし、一部に「××」という浮き上がり切らない言葉を残している。
 それから20年を経た1940年代後半。「××」の部分に「革命」や「帝国主義」といった言葉が浮かび上がる。
 それからさらに20年後の1960年代。今度は全体の文言がかすみ始める。打ち消し線でもって消され始めたのかもしれない。
 さらに20年が過ぎた。1980年代。打ち消し線で消された文言たちがいつの間にか消え去っている。もはや「××」といった伏せ字もなく、黒々とした「   」だけがえんえん続いている。
そして、さらにそれから20年以上を経た二十一世紀初頭・・・・・。
   」をうっすらと残し、茶褐色に変色した白地のみが残存し、その下地さえもが経年の崩壊作用の中にばらばらと繊維質であることを止めようとしている。
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今やあれらの文言たちがあった時間から遥かの彼方へ来てしまっている。
もはや誰からも支持されず、批判されず、読まれもしなくなり、「ある」から「あった」に転落してしまった文言たち。
「あった」のは、一瞬のことだった。
今いる、この彼方の位置から眺めるならば、あれらの「スターリンの文言」の存在は、一瞬の明滅に過ぎなかった。
そんな時点に、今いる。

あれらは、波打ち際の砂の上に書かれた文言たちだった。
波に洗われ消え去ってしまった砂上の文言たち。
そして、さらなる年月は、砂地をも流し去ってしまった。


  そのときこそ賭けてもいい、××は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
フーコー「言葉と物」1966)

21世紀という「そのとき」。
賭けるもなにも、テトラポットとコンクリートに護岸され砂浜さえもがきれいさっぱり消え去った。
波打ち際だけが荒涼としてえんえんつづく海岸線。
生き物は、屍骸すら見当たらない海辺。
ペットボトルやらの不燃ゴミばかりが打ち寄せられ波に洗われている。


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賭けてもいい

え、なに?
なんの話?