奉納どつき万歳


http://d.hatena.ne.jp/cidadebranca/20061031
近親憎悪漫才だぁ??!
まさにこの手の80年代的な視点の固持が、この評論家の持ち味なのだろうが。


ところで「漫才」だが、そうそう今あるような「M1」的形態が古来より継続している訳ではない。
80年代お笑いブーム以前の文化を知らない美術系評論家にはわからないのかもしれないが。
三河万歳」は神に捧げる目的のもので、元来は観客のことなぞ気にとめたりしないものなのだそうだ。
「お客様は、神様です」と言ったのは、三波春夫だが、その意は「客はすべて神である」ではなく、「神のみが唯一の客である」の意なのだ。

◆道を歩いている時に、「T1グランプリ」でぜんじろうが言っていた話をふと思い出しました。
もともと漫才のルーツは万歳です。三河万歳の「万歳」です。この万歳は、神の前で芸を演ずるものでした。神に奉ずる様子を一般の人たちも見物していたわけです。
三波春夫の「お客様は神様です」という言葉も、「お客様が神様」なのでなく、「神様がお客様」という意味だったとぜんじろうは言います。神様が楽しむもののおこぼれを人間も見せていただいているってことです。
松沢呉一「マッツ・ザ・ワールド 第709号 (2006年4月25日火曜日配信)」より)

客やら評論家やらなんやらは、神々のおこぼれに与っているだけなのだ。


_not_さんは、「(笑)」な世代の素養しかないから理解できないのだ。たとえ漫才だろうが、大衆やら「(笑)」やら採算やら馴れ合いやらを視界に置かない行為が実存することを知らないから。ポルトガルに遊んだところで何もわかりはしない。そういう評論家は、お好み焼きでも食べて笑いながら馴れ合っていればよろしい。そういうものとして扱うから。


人を視界に入れる必要がないからこそ、可能だった芸能が「万歳=漫才」だったとすれば、今必要とされているのは、「神」=「非在の消失点」へ向けた「漫才」だろう。
無論、「(笑)」はいらない。加えて、現代美術的に面白くないが故に安全な「芸」である必要もあるまい。
時代は、古き良き80年代以前へと地崩れしてしまったのだ。計量可能になってしまった大衆は、いないも同然の群衆だ。故に無視してよろしい。10%の資金力=発言力しかないのだし。


80年代的大衆文化が崩れた後なのだから、とりあえずの手本は、70年代的「どつき漫才」だろうか?


血みどろの二人組が延々と演じる、(笑)の一切ない凄惨な「どつき漫才」。非在の消失点のためなのだから、どこででも出来る。客も要らない。とりあえずはじめてしまえばいいのか。

戸惑う評論家が状況を把握し得ないまま血みどろになって昏倒するまでどつき続ける奉納万歳。(笑)はない。馴れ合いもあり得ない。そこはポルトガルでもない。客は神だけだ。しかし、その神々も消失点にすぎない。どご!どご!というにぶい打撃音だけが響き続け、どさっという評論家の転倒する音を合図に終わる漫才。
nano-thought的80年代でもなく、appel 的90年代でもない21世紀の幕開けの音だ。鈍く響く出囃子だ。