原美樹子は形式主義者である


☆新宿へ「ブラック・ダリア」を観に行った。

☆いいなあ、デ・パルマ。人間関係が入り組みすぎたストーリーに加えて、カメラが近いし、アクションが多いし・・・・で、目がちらちら。字幕を追うのに忙しくて、映像が堪能できない! けど、これは「帽子」の映画でした。ああやって被るんだ! と納得の一本。あみだに被っておいて、前のひさしをグイと下へさげる。なるほど。
 あと、シャツの襟。細く尖ったワイシャツの襟に焦がれた。

☆「煙草二本を加えて火をつけ、一本を相手に渡す」って有名なシーンだとよく聴くが、本家に出会わない。なにからの引用なんだろ? あとヒッチコックっぽい螺旋階段の引用とかダイニングテーブル上の情事とか・・・ 映画学科出身らしい映画的記憶がそこここにちりばめられていて・・・・残念ながら、鬱陶しかった。なくてもいいだろ? と思った。帽子とスーツと靴音と堕落した女たちと・・・あとはそれらを小気味良く切り替えて行けば、映画になった筈なのに・・と思ったのは、ハワード・ホークス三つ数えろ」の記憶がちらついていたから?

ハワード・ホークスの名前を思い出して、蓮實重彦阿部和重ハワード・ホークス形式主義者だと書いていたと書いていたことを思い出した。
 「ハワード・ホークス形式主義者である」。
倣って言うなら、「原美樹子は形式主義者である」。

☆おそらくは、原美樹子に「この時、なにを考えて撮ったのですか?」「この写真はなにを狙ったのですか?」「これは何を表現したかったのですか?」等々の質問をぶつけても、言いよどみとその先にある沈黙にぶつかるばかりだろう。なぜなら、原美樹子の写真には「形式」があるばかりだから。金村修、吉野英里香らにも共通する鈴木清直伝のスナップの形式。原美樹子もまたそのスナップの形式の伝承者のひとりだ。カラー写真であること、使っているクラッシック・カメラの性能上ほぼ完全にノーファインダーであること、カメラの先にあるものが通行人とは限らないこと等の差異は、ある。差異はあるが、形式の頑固な継承者のひとりであることははっきりしている。
形式主義者に(頑固な形式主義者に!)、内面的葛藤やら映像的意味付けやらについて問うたところで、無意味だ。

☆嘗て、原美樹子の存在は、風船に思えた。風に揺られつつも青い空へすーっと吸い込まれていく青い風船。いつか空にまぎれ、見えなくなってしまうであろう舞い上がる風船。そんなふうに思えた。「いいなあ・・」と溜息をつき、口を開けて下から見上げるしかないような風船。
 でもその後、原美樹子は、上昇より重力を選んだような気がする。選んだ? いや、そもそも青い空の先へと舞い上がろうなんて一度も願っていなかったのかもしれない。99年に新木場のSOKOギャラリーに出してた展示のタイトルは、「cloud 9」だった。なんでも「空一番高い雲」とかいう意味なのらしかった。空高くあがっても雲だったのだ。一番空高く上がりながらも、やはり雲として、すぐにでも元の水滴となって、木々へと草々へと花々へと土へと降り注ぐことが、はじめから原美樹子の願いだったのかもしれない。
 谷口雅が、「嘗て空に向いていた原美樹子のカメラに地面が写り込むようになってきた」と書いていたの読んでそんなことを思った。