吉村朗の思い出



吉村朗の思い出。


「思い出」といってまだ存命中なのだろうが。



谷口さんと鈴木理策の展示のことについてぼやいていて、「吉村朗」の名前を思い出した。嘗て、吉村朗と鈴木理策は、いっしょに川崎市市民ミュージアムで展示をしたからだ。正直、その展示は、あまり良いのもではなかった。余り良いものではなかったが、鈴木理策よりは遥かに上を行っていた。同時期の連続展では、金村修も個展をした。こっちも余り面白くはなかったが、鈴木理策のものよりは、地力に勝っていた。

その年、鈴木理策木村伊兵衛賞を獲った。
「なんでだよ?! なんで?!」という感じで、八つ当たり気味に原美樹子さんに電話をしたのを憶えている。原さんは、「うん、うん・・・」とひととおり聴き終わってから、ふふふと笑いつつ、「吉村さんは、伊兵衛賞獲らないよ! 金村くんは、伊兵衛賞獲らないよ!」と言っていた。特にどうどうどういう理由によって獲らないんだという話はなかったのだが、とても説得力があって、一気に納得してしまった。吉村朗や金村修がどうこうっていうより、「そうだよね、木村伊兵衛賞ってそんなもんだよな」という認識でもって。


吉村朗への感動は、大概、彼の文章読解力の高さから来ていた。意表をつくような感じで、不思議な文章を抜き出してくる手つきは、なにかとても駆り立てられるものがあった。
例えば、新木場のSOKOギャラリーで開催されたグループ展(ここでも鈴木理策は出品してたんだっけ!)では、三島由紀夫の祖母をめぐる文章をひっぱり出して来ていた。展示してあった写真は、モノクロで撮った「シデ」の写真だった。それもピントもあってなければ、粒子もぼやけているような写真で、早い話がわけのわからない写真だった。わけのわからないままに、三島の祖母をめぐる文章とともに視界に収めると、不思議な感じで記憶に張り付いて来た。本人に訊いたら、「ドイツ写真のマネなんですよ」とかって言っていたが、「マネ」といわれて納得できなかった。「・・・・マネか?・・・・オリジナルだろ、あれは・・・・」という感想だ。

あと、忘れられないのが、平永町橋ギャラリーで観た展示。「暁の夢」とかいうタイトルだった。DMには、スタニスワム・レムの言葉かなんかがちりばめるように引用してあった。モノクロのやはりピントのはっきりしない粒子のぼやけた骸骨かなんかの写真。旧満州で撮ったというような経緯が、中国人「彼女」の思い出とともに書かれていた。
神田の平永町橋ギャラリーにまわる前に、ちょうどその時やっていたヴェンダースの写真展を渋谷のパルコで観た。思わせぶりの一言ではじまるキャプションがどの写真にも添えてあったのだが、なんだかどうしようもない感じの写真が並んでいた。スペインあたりで撮ったカラー写真の記憶しかないが、モノクロもあったかもしれない。マキナー6×7で撮ったものだった。
ほんとにどうしようもない感じだった。
大体、ヴェンダースって、「写真はモノクロが好きです。写真展へ行ってカラーが並んでいると帰って来てしまいますとか言ってたじゃないか?!」とかいろいろ思いつつ、「なにヴェンダースってダメな人なの? スナップ、ひとつ撮れてないじゃん」と観ていて怒りが込み上げて来た。なんでこんなもん、金使って展示すんだよ?!と。
怒りが治まりきらないままに、神田の平永町橋ギャラリーに廻って、吉村朗の展示を観て、まさに溜飲が下がる思いだった。
「どーです! どーだ?!」と、興奮して、同行の元妻(その時はまだ妻ではなかったけど)に威張りまくった。
「写真っていうジャンルがあるんだよ! 映画監督が片手間でどうこうできるようなもんではないジャンルが!」ということが証明されたような気分だった。




金村修は、ギャラリーとのこじれた契約がようように切れたようで、個展活動が再開される様子。
でも、吉村朗は?
谷口さんに訊いたら、「知らない」とのことだった。
吉村さん、どうしておられるんだろう?
今なにをしているのかも知りたいが、上にあげたようなぼやけた写真だけではなく、すれちがいざまに掠めとったようなストリートスナップの名手でもある吉村朗。単調で退屈な展開のなさの中でうんざりしてしまうようなストリートスナップばかりの中で、その速度感と、安定なぞ念頭にないかのような構図はどこまでも忘れがたい。


写真が、見せ物小屋の亜流やら服飾や音楽や映画の販促物ではなく、あるジャンルなのだ、固有のジャンルなのだと確信させてくれた写真家。










追記:
吉村朗さん、2012年6月2日に亡くなられました。享年52。ご冥福を。