三人の安藤広重


安藤広重は、4人いた。いや、四代襲名されたということだ。
誰もが知る広重は、一代目ひとりだ。あの「東海道五十三次」の、あの教科書に載っていた、あの広重だ。1797年に生まれ、1858年に死んだ。19世紀を生きた人だ。
その門人だった宣重が、二代目を襲名したが、1865年に「離縁」されて横浜へ移り、喜斎立祥と名乗り、外人相手の土産物の「茶箱」に絵を描いて生活したそうだ。1826〜69。「茶箱広重」と呼ばれている。
三代目は、門人の重政(1845-1894)。二代目が名を変えたのを機に三代目を継いだ。いや、複雑な事情なのかなんなのか、「二代歌川広重」を名乗ったそうだ。
三代目の死後、安藤家と親しかったという理由で、菊地喜一郎という版画家が四代目を継いだが、のちに書家に転身している。

問題は、一代目から三代目までの「広重」だ。
一代目は、19世紀の錦絵の文化の真ん中に育ち、なんの問題もなく浮世絵を描き続けて死んでいった人だ。
二代目は、有名な一代目の後を受けて、一代目たちがずっぽりはまり込んでいた19世紀文化の中に生きざるを得なかった人物。出奔してなお、師匠から教わった様式を守り続けざるを得なかった人物。しかし、彼の時代には、最早、「徳川時代」そのもの、19世紀的な日本文化そのものが変化を余儀なくされていた時代だった。時代は、20世紀へ向けて大きくかわっていっていた。だからといって、人間がそうそう変われる訳もない。二代目は、徳川時代的なものをひきずりつつ、その時代遅れな特質でもって、開国後にも輸出品としての昔ながらの錦絵を描き続けたようだ。
三代目は、もう初代の模倣ではいられなかった。襲名した時には、徳川時代が終わる直前だったのだ。文明開化があからさまに来ていた。その余波をまともに浴びて、汽車だガス灯だといった風俗を浮世絵に取り入れていった。まさに近代へ順応するかのように? いや、どんなにどうしたところで、三代目は、近代というポスト徳川時代に順応することは、できなかった。なぜなら浮世絵そのものが必要とされなくなったから。「終わった」から。明治の時代の寵児は、「ポンチ絵」だ。木版画ならざる新しい複製技術を得て台頭したのは、その技術に沿った新しい絵だった。三代目の時代への迎合、新時代への挑戦は、それ自体が時代遅れなものとなって、果てた。

もちろん、「安藤広重」以後も浮世絵、錦絵は継続している。しかし、それはもはや「初代安藤広重」の絵のようには機能しない。「三代目安藤広重」も明治の時代に受け入れられようと「新しい錦絵」を描いた。しかし、それはもはや一世を風靡するにはいたらなかった。四代目を弟子から出すことすらできなかった。



さて、考えているのは、20世紀文化と、20世紀文化に属する「写真」と、今は21世紀であるということと、僕が写真をはじめたのは1990年代だったということだ。





茶箱広重 (小学館叢書―一ノ関圭作品集)

茶箱広重 (小学館叢書―一ノ関圭作品集)