マンガとパチンコ

マンガというのはね、パチンコと同じで、ストレスを解消しなくちゃならん。だからそんなに名作である必要はないんです。ましてやあんた、マンガ批評家だなんて。だからパチンコ屋の隣でいいんですよ。娯楽をバカにすることはないですよ。(水木しげる

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「マンガ研究」は、うじゃうじゃしてるから、次はパチンコだという考えもある筈。「国立マンガ図書館」構想は消えたようだから、国立パチンコ館を作って欲しいもんだ。

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マンガを近代絵画の最終形態として考える事ができる。瀕死の絵画、絵画のデッドエンド。同様に映像の最終形態としてデジパチは位置付けられる。映像の最終消費。同時にはじまりとしてのジャンク。

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【解説】

「マンガ」の問題は、「マンガ批評家がいる」ことではなく、「マンガ批評家すらいない」ことだろう。「マンガ批評家すらいない」にも関わらず、「マンガ研究」やら「マンガ史研究家」やらなんやら、怪しげな肩書きを名乗って、文化庁が垂れ流す公共事業に食い込もうって輩はうじゃうじゃしていたこと。このことが、マンガを心底疲弊させたようだ。



さてさて、そんなやこんながマンガに取り憑いた二十年間で、マンガの妖力は吸い尽くされてしまったようだ。
で、だ。
で、「マンガはダメだったようだから、次は何か?」と考える時に、考え及ぶのが、「パチンコ」だろう。NHK朝の連続ドラマでもおなじみのげげげの漫画家、水木しげる先生も「パチンコこそ、マンガと同質のもの」を太鼓判を押しておられるし。



マンガを近代絵画の最終形態として考える事ができる。
瀕死の絵画、絵画のデッドエンド。
写真登場後の時代にあって、「写真のように描く事」と「写真にはできないように描く事」の両端を揺れながら、衰亡していった「近代絵画」。
その両端の間で落ちこぼれるようにして、「マンガ」が生き延びて行った。
写真ほどに映像に忠実な訳はなく、「抽象記号」という程に、映像から縁を切っている訳でもないない半端な絵画表現。
「デッサンが間違っている!」と写実主義の側からダメ出しすることも可能だし、「イメージに依存しすぎだ」と抽象主義の側からダメ出しすることも可能な落ちこぼれ。

「大衆」「群衆」の世紀として出発しながら、なぜか「俗情との結託」を切断することを夢見つつ、迷走して行った20世紀現代芸術。
そんな経緯でか、「現代美術」「現代音楽」等の20世紀出自の芸術は、「蔑称なんじゃないか?」という程に、人々の嫌悪の的になって行った。
そんな20世紀にあって、落ちこぼれの近代絵画としてマンガは、のうのうと生き伸び、隆盛して行った。それは、20世紀という映像の時代にあって、人間と絵画を結びつける最後の紐帯だったのだろう。
教職者やら良識的PTAやらからは、「クズ」「ジャンク」「ダメ」「くだらない」と蔑まれまくった「マンガ」。実際、クズでダメでゴミでヘタクソでくだらなくってどうしようもない文物だったのだが、それは、ゴミ集積所のような汚濁と腐臭の中にあってだけ、禍々しい迫真力を帯びることができた。「俗情と結託せよ!」「俗悪こそ我が血肉」とばかりに、衒いも逡巡もなく大衆と迎合し、汚濁に沈み、自らもゴミそのものとしてのたうちながら禍々しい光芒を帯びていた「マンガ」。大衆や俗情と切り離して、「研究」の対象にしてしまえば、ただのゴミだろう。

さて、映像に於けるパチンコは、絵画に於ける「マンガ」と同様の位相にある。
映像の最終形態としてデジパチは位置付けられる。映像の最終消費。同時にはじまりとしてのジャンク。
そこでは、映像は、断片化され、意味をはぎ取られ、対面する人々から注視されることすらない。そんな「映像のクズ」が、デジパチの映像だろう。
アニメから取られていながらアニメとしては体を成さず、アクションドラマから抜粋されていながら、ひどく動きのぎくしゃくした半端な映像。
別にそこに映像が流れている必要もなければ、誰もそんなものに注目もしていないのに流れている映像のゴミ。
しかし、そんな「映像のゴミ」であるパチンコが、マンガが人々と絵画の最後の紐帯だったように、映像と人間(有象無象としての人間!)との最後の紐帯となることだろう。


そんな訳で、「21世紀」という、20世紀=「映像の世紀」の次世紀、公共文化事業は、パチンコを中心に構想して欲しいもんだ。