縮減


橋本聡子写真展「蝸」を観て、「縮減」という言葉を思い出していた。レヴィ=ストロースが「野生の思考」の中で、美術について語っていた言葉だ。すなわち、あらゆる美術は現実を縮減したものだと。たとえば、絵画なら立体を捨てて平面にしたものだし、彫刻なら動きを捨てたものだし・・云々というような内容だった筈だ。結句、「美術は必ず現実より小さい」ということになる。なぜなら、現実を縮減してものだから。
 「縮減」を「表象」と言い換えるなら、少し前に流行った議論に行き着くのだろう。そして、「いや、美術は何かの表象やら代行やらではない。美術は美術そのものであるべきだ。ペインティングはジャスト・ペインティングなのだ!」という、これまた少し前に流行ったアメリカン・モダニズムな主張につながるのだろう。美術(写真も含む)は、何かの表象ではなく、「美術」という現実そのものなのだ、と。

 この「絵画は絵画であるべきだ」とか「写真は! 写真は!」あるいは、「漫画ってものは・・・」という主張のつまらなさに飽き飽きしている。確かに絵画には絵の具の厚みしかない。写真には乳剤の厚みしかない。そんなものが何かを表象=代行できるわけはない。しかし、それらは、何か(現実? 現前? ものそのもの?)の縮減であることは間違いない。どんな無意味に模様化したモダニズム美術だろうが、描き手を失うことも美術業界を失う事もできないではないか? そこに現実の縮減であるという「ざまぁみろ」な側面を残している。ざまあみろ。悔しかったら社会関係から完全に切れて絵画してみろ。写真してみろ。

橋本聡子写真展「蝸」を観終わって、そんなことを思った。だからなんだという話だが。

となりの展示を素通りしたことも付け加えておこう。写真に紙と乳剤の厚みしか感じないことの鈍感さに腹が立ったからだ。