鴨沢祐仁のブログ→「食えない」による閉塞突破

 「Web写真」は、「悲しき玩具」http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card815.htmlなのだそうだ。もしそうだとすれば、やはり原因は、「時代閉塞の現状http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card814.html 辺りに起因するのだろうし、打開策としては「食うべきビール」的な「食うべき」写真の提唱といったところか? いや、「悲しき玩具」と断定した当人に限っていえば、どうやら「写真によって食うべし」と結論づけられた様子だ。なるほどね! わかりやすくもまっとうな考え方なのだろう。
 百年前の「詩」について言えば、「食ふべき!」と力む必要があったのかもしれないが、写真の方は、どうやったって「実人生」と相即してしまう。寧ろ「食えない」を提唱して欲しいもんだ。「写真や美術に関わりつつ生活もままならず食費交通費に事欠く状況を堪え忍べ」とかセコいことを言いたいのではない。(なんでみんな収入源にこだわるのかね?税務署じゃないんだから。どうやって稼ごうが金は金だし飯なんて食うだけあればいいだろうに。写真のために払った授業料の多寡の問題なのかもな、これは。まあいいや) 「とてもじゃないが現状に於いては容認され得ない」ということだ。若しくは「真意の把握し切れない」といった辺りかもしれない。いつの時代でも「食えない」奴が仕組んだ「食えない」もんだけが閉塞的現状を突破して来たんだから。

 「食ふべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食ふべきビール」といふ言葉から思ひついて、仮に名づ けたまでゝある。
 謂ふ心は、両足を地面に喰つ付けてゐて歌ふ詩といふ事である。実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩といふことである。珍味乃至は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に「必要」な詩といふことである。――斯ういふ事は詩を既定の或る地位から引き下す事であるかも知れないが、私から言へば我々の生活に有っても無くても何の増減もなかった詩を、必要な物の一つにする所以である。詩の存在の理由を肯定する唯一の途である。
             (石川啄木「食ふべき詩」:東京毎日新聞」明治四十二年十一月〜十二月)


 急に「鴨沢祐仁」の名前を思い出して、検索をかけたら、HPがあった。 http://www.kamosawa.com/ 吾妻ひでおといい、ものすごく不思議な感じがつきまとうのだけど、でもこれが現実なんだから仕方ない。
 たぶん、殆どの人が知らないマイナーな漫画家なんだと思う。でも80年代には、とてもトレンドなものとしてもてはやされた漫画家だ。「オリーブ」や「an an」のアイテムとして登場するのは、鴨沢くらいのものだった。僕は、「お洒落小物のひとつ」という感じで観ていた。「だって、タンタンじゃん? ニモじゃん?」というのが僕の評価だった。「イラストレーターの片手間仕事でしょ?」くらいに思っていたので、持ってもいなかった。
 鴨沢祐仁が、実は強度のアル中だ、と知った時は、かなりどきどきした。98年頃に松沢呉一が宝島系の漫画ムックで書いていたんだと思う。「え? なんで? なんであんな無味乾燥なおしゃれ系の漫画の人が依存をもつのさ???」というとまどいだったんだと思う。物凄くショックだった。だって、いくらでも売れそうないくらでも商行為として成立しそうな絵柄の人だよ? 僕は彼の漫画家としてのオリジナリティやら才能やらを認めないけど(だから買わなかった訳だし)、そんな人ざらにいる。でも彼のイラスト技術はかなりのものだし、趣味ではないけどかなり気が利いてもいる。普通にイラスト描いてデザインして普通に商売して充分な収入得て業界仲間と談笑しながら普通に生きてればいいじゃん???? なんでさ? なんでアルコールに依存する必要があるのさ?????
 遠い記憶で鴨沢の漫画を立ち読みした記憶を思いおこせば、確かにそんなにすっきりしたものではなかった。夜のシーンばかりだし悪夢すれすれと言えなくもなかったのかもしれない。わからない。これはほんとに本人にしかわからないことなんだろうと思う。
 ホームページの更新記録は2004年で止まっているものの、ブログの更新は継続されている様子だ。生活保護、通院、断酒、再飲酒等の記述が続く。 そして、「鬱」と「飲酒」の記述がつづいたあと、四月十八日で途切れている。http://blog.goo.ne.jp/kamonegi_001/ 「やなものみつけちゃったなあ・・・」感が正直ある。 でも。でも、だ。 でも本当に正直、無事を祈らずにはいられない。無関係なひとりとして。