話の主題は吉本隆明です。 この本を書いた時点では、吉本隆明というのは、どうもおかしいと思うけれども、何となくすっきりしない、と思っておいでの多数の読者に、すっきりしていただく機会を提供するために、あの人物の書き流すことがどれほど無茶苦茶かを、ていねいに論証しておく必要があった、ということです。
しかし、 この本の中では、 かつて1950年代の吉本の発言が持っていた意味は、今でも評価してよいと思うので、 その評価もしなければならない、 ということをかなり強調して書いていますが、 今になってみると、 あの人やっぱり最初からうさんくさかったのだよ、 という思いの方がずっと強くなりました。 何であんな奴が高く評価されちゃったんですかね。
多分すぐれていたのは、 吉本自身よりも、 彼の断片的な言葉の中にいろいろすぐれた意味を仮託していった多数の読者たちの方だったのでしょう。
しかし、 あの評論家気取りの愚物が、 まるで自分はいっぱしの思想家であるかのように思い上がって、 その結果として、 どんどんと愚劣になっていった軌跡は、 一つの警告として、 たどっておく意味はあるでしょう。
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絓 その問題で言うとね、高澤さんが言ったように、吉本は、六〇年安保まで遡るんだけど、「擬制の終焉」といった形で前衛神話を批判し、共産党を含めた進歩的知識人の批判を敢行し、なおかつ新左翼と同伴するように啓蒙的知識人を批判したといわれ、大きなパラダイムチェンジだといわれてるんだけど、それがはたしてストレートに延びていったのかどうかというと大間違いじゃないか。吉本の「大衆の原像」論が批判したものが何だったかというと、当時すでに出ていたアメリカ社会学系の大衆社会論ですよね。松下圭一とか、さっき出た花田清輝、清水幾太郎とか、そういう理想的な大衆社会論に対して、大衆社会なんてしょうもないものなんだ、インチキでフィクションで、大衆には「原像」みたいなものがあって、みたいなことをむしろ基本的には言ってたわけですよ。
高澤 自分の生活圏から一歩も出ない大衆を原像として抽出した。
絓 うん、魚屋は魚を売りながら革命を知れと言ってたんでしょう。(略)六〇年代の吉本さんは七〇年代以降における大衆社会の全面開花に対応できる筋を持っていなかった。それがおそらく六八年のような段階でなにか吉本さんのなかで起きたんだと思うんですよ、全共闘のなかで。「大衆の原像」って概念はもう通用しないかなと思いつつ、しかし学生運動は、もう俺を必要としないんじゃないかって恐れみたいなものもあった。中心読者層もそうだし、六七年の十・八羽田闘争、日本の新左翼が最初にヘルメットとゲバ棒を持って登場した全共闘の前哨みたいなときに、吉本さんは「試行」のあとがきで「このクソばか学生」みたいなことを言ってですね(笑)、こんな学生なんか信用しないと言っているわけですよ。
高澤 しかし実際あの時代の学生には支持されていたわけでしょう? 彼らにむけてなにか過激なメッセージを発してもいたのではないですか?
絓 吉本は六七年以降の学生運動に対してはしばらくのあいだスタンスを決めかねていたと思うんですよ。どうも世の中そっちのほうに向いているわい、というのもあってさ(笑)。昔の人脈もあるし、基本的にそっちのほうに振れていったんだと思うんです。「情況」(一九七〇 河出書房新社)のなかで、(進歩的知識人の)丸山眞男を学生はいじめている、これは私と同じである(笑)、おそらくそういうふうに振れてきたんだと思う。これは、まだ学生の「教祖」でいられるかなって思ったんでしょうね。商売の問題だ。吉本さんのなかで六八年的なパラダイムチェンジのなかで(大衆社会肯定のほうに)徐々に流されていったという面はある。でも彼は基本的に大衆社会なんてなにもわかってなかったんですよ。
絓 つまりね、六〇年が終わったときに、安保のブントの分裂過程のなかで、基本的に皆、革共同に行くわけですね、これからマルクス主義者として運動をやっていこうとすると。で、反革共同の思想家は吉本しかいなかったわけよ。
高澤 それは花田のときも同じですよね。僕はそれを称して商業ジャーナリズムにおける勝利といっているので、彼はあれだけ一見ラディカルな言説を振りまきながら、安保にコミットしても全共闘にコミットしてもまったく文壇論壇からパージされないわけですからね。これはもう、反左翼的なサヨク芸人としか言いようがない。
(絓秀実 宮崎哲弥 高澤秀次「ニッポンの知識人」1999年)
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