麻薬と子ども



ダッシンの「街の野獣」を観終わった余韻の中で書く。
データも知識もないままに推論することは愚かだと知りながらもやっぱり考えてしまう。 「麻薬と子ども」のこと。


ちらとwebで検索しただけでもわかってしまうのは、薬物の氾濫が、「日本国」という地域限定の話ではないこと。
日本国内の「列島内で作らせない」+「水際で徹底排除する」という方針も空しく、覚醒剤という日本とイランでしかひろがることのなかった危険な薬物は、世界中で依存者を増やしつづけているようだ。これを徹底阻止しつづけていくという方針もあるだろう。阿片の国内蔓延を阻止したように。
が。
やはり国内に入って来ていることも事実。「鎖国」していて、世界から相手にされてもいなかった貧国時代とは違う。いや寧ろ世界に先駆けて広がっていたのがこの国だったのだ。


薬物について。
承認せよという主張には、やはり同意できない。 身近にみて危険であることはよく承知している。
これは、健康上の安全が云々されている大麻についても、現状に於いて是認できないだろう。弁当屋で働いているとき、大麻でいたずらをされて、本気で怖い思いをしたからだ。阿呆に危険なものを持たせると本当に危険だということを本気で思った。具体的に書くならば、「オランダ土産だ」というチョコレートを前働いていた弁当屋の店長に貰い、「ああ、チョコレートなんだ」と思って、昼休みに食べて、そのまま午後の仕事に就き、バイクに乗り・・・・段々感覚が狂ってきて・・・本気で発狂したのかと思った。マリファナが混入したチョコレートだったのだ。「洒落」で済むものか? 「洒落」で大麻を盛られたらたまったものではない。知らずに摂取した薬物は、安全ではない。使う奴が認識していなければ、普通に危険だ。悪用いたずら慢性化・・・。どれも「危ない」といわざるを得ない。阿呆はいる。阿呆が多い。ほんとに多い。容認するにせよ、「それがどんなものなのか。どこまでが安全でどこからが危険なのか」を徹底周知させることが前提だろう。阿呆どもが知っていること。阿呆たちこそが知りつくしていることが前提だ。しかし、まあ、そもそもデータがない以上は、当分はあり得ない。


しかし、「広がっている」「自堕落に蔓延している」ことは、そうなのだ。否認してもしかたがない。「ならば?」というところで考えるしかないだろうと考える。
「禁止のあるところには利益がある」と書いてたのは、「言葉と物」のミシェル・フーコーだ。営利活動を制限するモラルのない日本国では、禁止はやすやすと蹂躙され、飽くなき利益追求はつづくことだろう。それらに抗して「生存のための倫理」を謳うことは限りなく空しい。


自分の子どものことを思う。
危険に近づかないで欲しいとは思う。しかし、どうなのだろう? 彼女が生きることになる生活は、僕が生きた生活よりも最低生活水準に近いものになることは目にみえている気がする。まともな教育が受けられるかどうかも心もとない。なにせ彼女の「養父母」は、貧乏で、教育も低いから。新自由主義社会の中、最低生活水準ぎりぎりのラインで生活するならば、常に危険はまわりにあるだろう。遠ざかろうとして、行く先もなかろう。


「どうかそれらの危険をすり抜けて行って欲しい」。
そう願う。
これは親や教師や国がどうこう出来るものではない。
何が危なくて何には近づかない方がいいか。
彼女の五感にすべてがかかっている気がする。
「彼女が悪徳に滅ぼされずに生き延びられますように」。
そんなことを願うだけだ。









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言葉と物―人文科学の考古学

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