形式主義の危機


形式主義を徹底させるためには、画面から人間を追い出す必要があった。
類型におさまりながらも、類型からはみ出ることを求めるのが、人間である。頭の悪そうな哲学業界用語でいうなら、「実存」という奴だ。「複製技術時代の芸術作品」の中で、ベンヤミンは、「人間の顔」が「追憶」にかかわるという点でこのことを指摘しているが、そういうことだと思う。「人間」「顔」(←レヴィナス?!)は、類型へと統合されることに抗う。嫌う。個だ。個がそこにいるのだ。風景として撮影者の内面に統合されてたまるものかと叫び声をあげる。「俺は風景じゃない!」と。彼は彼なのだ。背景を振り切る。「顔」を形式の中に押し込めるためには、「顔」を無視するしかあるまい。人を人と思わぬ事。「人」を「人でない」として扱う必要が出て来る。「乞食」「ビンボー」とし「猿人」としてあからさまな侮蔑を掲げて差別意識でそれらを賤民化して、「顔」を奴化してから、厳かに様式へと押し込める。
それに対して、人なしの人工風景を形式に押し込めるのは、はるかに容易い。そもそもが「自転車」にしろ「街路」にしろ「住宅」にしろ「造成地」にしろ、量産可能な形式が先行しているのだ。あとは画角を安定させれば、すべては一定様式の中に流し込める。単純再生産されたものを再度同一形式の中に押し込めているだけなのだから。
そんな形式主義だが、危機を迎えるのは、まず、撮影者に肉体的な衰えが来た時だろう。類型的生産物で覆われた人工風景の方はさしてかわらずとも、撮影する人体は量産物ではない。個として類型への反抗をおこす。この反抗をひたすら押さえつける必要が出て来る。「不動」は、「微動」より遥かに苦しい。抑えきれるものではない。衰弱、酩酊、心境変化、職域異動。僅かな動きが様式美に綻びを作る。
次の危機は、移動だ。撮影者が移動してしまえば、それまであった類型は崩れる。移動先は前の場所とは違う生産様式で満たされているのだから。大井町駅前の類型をアルマトイ郊外で再現できる訳ではない。
そして、なにより、「名前」だ。「声」だ。奴隷化された人は黙っていない。拳とともに「名前」と「声」が吹き出す。黙って撮るな! レンズぶち割るぞ!



これら形式の破れ目にだけ一瞬、物それ自体が溢れ出す。溢れ出して、襲いかかる、形式主義ののど笛へと。喰い破られた頸動脈から血飛沫を吹き上げる時はじめて形式主義は偶然の出会いの唯物論のなんたるかを身に染みて知ることだろう。