「国家の暴力装置」っていう言葉が気になって調べてるんだが、見つからない。マックス・ヴェーバーに見当たらない。レーニンは「国家装置」とは使ってるが「暴力装置」とは使ってない。アルチュセールも同じ。今村仁司にも萱野稔人にも見当たらない。
ない。
Googleブックスで検索かけたら、革共同革マル派の機関誌が出て来た。
新左翼の常套句?
大内兵衛/向坂逸郎「大系国家独占資本主義〈8〉現代史と社会主義革命 (1971年)」349頁と364頁に、どこかからの引用として出て来るらしいが(谷川俊太郎らのせいで)読めない。
「思想の科学」第 356〜359巻にでも出て来るらしいが、(谷川俊太郎らのせいで)読めない。 三島由紀夫「文化防衛論」やら中上健次全集14巻やら平岡正明「石原莞爾試論」やら中村雄二郎著作集第6巻やら「丸山眞男座談: 1966」やら本多勝一「貧困なる精神: 悪口雑言罵詈讒謗集」「中国の旅」にも出て来るようだ。出て来るようだが、(谷川俊太郎らのせいで)読めない。
(谷川俊太郎らのせいで)出典がわからん。
図書館行くか。図書館で大内兵衛/向坂逸郎の本をひっくり返すしかなさそうだな。図書館にあるかな?
☆
マックス・ヴェーバー、レーニンの「暴力」についての言及は以下。
☆
むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家をふくめたすべての政治団体に固有な特殊な手段、つまり物理的暴力に着目してはじめて可能となる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。」トロツキーは例のブレスト・リトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。
(・・・・・・)
国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。
(マックス・ヴェーバー「職業としての政治」1919 脇圭平訳)
☆
常備軍と警察とは、国家権力の暴力行使の主要な道具である。しかし――はたしてそれ以外のものでありうるだろうか?
国家は特殊な権力組織であり、ある階級を抑圧するための暴力組織である。
(・・・・)なぜなら、プロレタリアートは、古い国家装置を新しい手へうつすという意味で、国家権力をたんにたたかいとることはできず、むしろ、この装置を粉砕すしうちくだき、それを新しいものでおきかえなければならないことを教えたのは、まさにマルクスであったからである。
(レーニン「国家と革命」1918 宇高基輔訳)
☆
驚いたことに、マックス・ヴェーバーの国家観は、トロツキーに賛同するところからはじまってるようだ。第一次大戦後のこの頃、マックス・ヴェーバーもレーニンもトロツキーも国家と警察と常備軍については似たように考えていたのだろう。
いずれにせよ、主旨としては、間違ってないと思うんだけどねえ。
なんで謝罪したの?
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1968
- メディア: ?
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: レーニン,宇高基輔
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/11/25
- メディア: 文庫
- クリック: 10回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
☆
追記:
Googleブックスで出て来た大内兵衛/向坂逸郎「大系国家独占資本主義〈8〉現代史と社会主義革命 (1971年)」を参照するために、中野区立中央図書館まで行って来た。
徒労。
この「大系国家独占資本主義」って、社会党内の向坂逸郎周辺の人たちの「俺たちは偉いんだぜ正しいんだぜ文集」なの? 当該の箇所は、山崎彰氏(社民党富山県連の人?)による「構造改革論批判」だった。社会党の内部論争。今なら2ちゃんの掲示板だかTwitterだか使ってやる程度の内輪の貶し合い。こういうもん、読むと脱力感が来て、無性にハラが立つ。然も、世田谷図書館にないから中野図書館まで行ったんだよ? (谷川俊太郎らのせいで)
社会党構造改革派の江川弘氏(どういう人か知らないけど)が、『現代の理論」っていう雑誌(なんだと思うけど)の1965年10月号と11月号で連載した〈講座〉「現代革命と構造改革」の中からの引用だった。
そこで、この講座が国家権力をどのようにとらえているかをみなければならない。
「保守的・教条的なマルクス主義者は権力は強制装置であるという命題に固執している。しかし、強制装置が強制装置として機能しうるには(略)合意の基礎なしに暴力装置を発動するならば、(略)」(略)だから「ブルジョワ支配は、単に暴力装置によってだけ維持されるだけでなく、(以下略)
もういいですかね?
60年代から70年代初頭の社会党内では、「暴力装置」って言葉がなんとなく使われていたってことだろう。
☆
でも、この箇所でもそうだし、レーニン「国家と革命」でもそうだけど、「暴力」に批判的なアクセントはないよね。
☆
なんにしろ、「国家の暴力装置」の出典はわからない。
たぶん、出典は、ない。
レーニンの「国家装置は暴力組織を専有する」っていう話が変型したんじゃないの? レーニンの言葉を68年の世代(特に「全共闘」)は、なんとなくステレオタイプに繰り返していくうちに、国家について語っている筈の用語が、機動隊やら自衛隊へとずれいって、「自衛隊は国家の暴力装置である」へと漂着して、いつのまにか自衛隊機動隊について語る常套句として頻用されていた.....んじゃないか、と。
少なくともマックス・ヴェーバーではなさそう。なにしろ、トロツキーからの引用として語りはじめているんだから、明らかにレーニンの方が先行してる。21世紀風に言えば、マックス・ヴェーバーは、レーニンのパクリってことになるのかもしれんが、いうまでもなく、そんなものはどっちでもいい。20世紀初頭から20世紀中盤にかけての日本では、マルクス主義でも社会学でも普通に言われた通念だったが、21世紀の今日にそんなこと口走ろうものなら、極悪非道なスキャンダルに映る、と。
くだらん。
追記:
「暴力装置」という言葉は、あったようだ。
失礼しました。
レーニン「国家と革命」にあるらしい。
大月書店版。
なら、それだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20101121/violence
http://d.hatena.ne.jp/catisgood/20101121/1290326392
☆
マックス・ヴェーバーの「経済と社会」にもあるそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20101121/p1
☆
「レーニンが先か、マックス・ヴェーバーが先か」はどっちでもいいような気がするんだが。
☆
さらに、マックス・ヴェーバーが引用しているトロツキーの発言の中にも「暴力装置」という言葉は出て来ているようだ。
http://hisphyussr.at.webry.info/201011/article_2.html
☆
「日本に於ける受容」だが、そっちは別にいいや。いろんな人が誰が発祥ということも知らずになんとなくみんなで使っていた常套句だったんだろうから。その証拠にみんな引用元を揚げないで書いてる。特に神山茂夫に固定する必要もないと思う。彼がはじめて使ったのかもしれないし、当時の戦前共産党内で共通して使われいたのかもしれない。
それにしても、「神山茂夫」とかマニアックな名前が出て来ると、そっちの専門家の話がきいてみたくなる。天皇制云々してるところをみると、戦前共産党の講座派の人なんだろうか?
仙谷内閣官房長官にしろ68年の世代の訳だし、68年の問題として、絓秀実あたりのコメントなり時評なりが読んでみたい。
どっかで書いてくれないかな。
☆
なんにしろ、「暴力装置」は、いっぱいあるみたい。
失礼しました。