ポスト産業資本主義の写真

いま、みんなランキングでしょ。批評ではなくて、テレビなんかでやっているランキングを見て選んでる。自分で探すのではなくて、行列のできたラーメン屋にならぶのと同じですね。

劇場は危険が一杯!──掛尾良夫インタビュー
岩井克人が、ポスト産業資本主義の特色として、「デ・ファクト・スタンダード」ということを強調してるが、これもその一例だ。「優れているから観に行くのではない、みんなが観てるから観に行くのだ」。



以前、宇野弘蔵の「三段階論」を写真に応用した話をでっちあげようと思っていた。うまくいかなかった。「産業資本主義段階」を柄谷行人マルクスその可能性の中心」ISBN:4061589318明しようとしたからだ。柄谷行人の無理矢理な論法を応用しようというのが、そもそも間違っていた。
岩井克人の「三段階論」を使うと実にすっきりでっちあげられる。


1)重商主義的写真:
 旅行に行って写真を撮るやり方。「起源」は、元祖・凡庸な作家、マクシム・デュカンあたりだろうか? フランスからエジプトへ出かけて行って、エジプトの風景を撮って帰って来る。エジプトにあってはありふれた風景が、フランスにはないものだから、フランスへ持ち帰ると高値が付く。旅行写真家は、みなこのやり方。日本からパリへでかけて、パリの写真を撮って、日本で売る。イギリスから日本へ出かけて・・・・・。地域的移動が差異を作り出し、利益を産む。


2)産業資本主義的写真:
 スタジオ撮影による写真。いわば「スタジオ」が工場に当たる。カメラマンが職工長、アシスタントが職工。廉価な労働力であるアシスタントを使い、特殊な光線を作り上げ、モデル(原料?)に手を加え、それらの「手」(労働)が加わらない写真との差異を生み出し、売るやり方。「剰余価値」は、カメラマン、アシスタント(特に後者)から「搾取」される。どこまで人件費を抑えられるかが、ポイントになる。もちろん、「特別剰余価値」としてのカメラマンの「センス」だ、「感覚」だ、「技術」だ、といったもんから生み出される部分もある。部分もあるが、すべての産業資本主義的と同じく、利益を産むのは、基本的に「廉価な労働力」である。どれだけカメラマンを買いたたくか。どこまでアシスタントの時給を0円に近づけられるか。儲けはここにかかっている。コマーシャル・フォトは、概ねこの段階の写真だ。そして、ここで「儲ける人」は、カメラマン(=労働貴族)ではなく、社長さんたるスタジオのオーナーである。一番、搾取されるのは、アシスタントである。万国のカメ・アシよ団結せよ!
 加えるに、「写真学校」(専門学校、大学写真学科等)は、この「労働価値説」に基づく産業資本主義を固定化するためのイデオロギー装置として機能する。労働者階級(=アシスタントでありカメラマンであり)を再生産するために洗脳を施す。どの学校も「写真に関わりつつ、優雅に生活したいのなら、スタジオ経営をせよ」とは教えないだろう。「苦労はムダ。初期投資の費用と経営ノウハウが重要なのだ」とも。ウソを教えているのだ。洗脳するために。「プロテスタンティズムの倫理=資本主義の精神」に対して、学生が疑問を抱いたりしないように。


3)ポスト産業資本主義的写真:
 コンポラ写真にはじまるような写真。それが良いと誰もが言うから良い写真であるような写真。
問:「ウィノグランドがなぜ良いのか?」 
答:「良い写真だと言われているから良い写真なのだ」。
「シャーカフスキーが良いと言ったから」が、きっかけであるには、違いない。違いないが、その後もシャーカフスキーの論文が参照しつづけられているから、「良い」とされている訳ではない。
なぜヒロミックスがいいのか? なぜアラキがいいのか? なぜ川内倫子なのか?・・・・どれも答えは、同じ。「良い写真だとされたから良い写真なのだ」。すべては、デ・ファクト・スタンダードに過ぎない。もちろん、きっかけはある。きっかけはあるが、そのきっかけがあれば、「良い写真」となる訳ではない。同様のきっかけを持つ写真家は、他にもあまたいるにもかかわらず、「良い写真」とされるのは、ひとつである。では、なぜその写真だけが良いのか? その答えを、「きっかけ」の方に求めてはならない。ただ単に「良い写真だと言われているから良い写真なのだ」。理由は、循環論法の中にしかない。アシスタントがいるから(剰余価値)とか、技術があるから(特別剰余価値)とかに利益の根拠を求めてはならない。労働価値説の破綻が露呈した段階の写真なのだから。ひとりで撮ろうが、ラブホテルで撮ろうが、ストロボが下手だろうが、インスタント・カメラで撮ろうが、はたまた本人でない人間が撮ろうが、「良い」とされるから「良い写真」なのだ。



参考文献:
岩井克人貨幣論ISBN:4480856366
「会社はこれからどうなるか」ISBN:4582829775
「資本主義から市民主義へ」ISBN:4403231055
カール・マルクス資本論 第一巻」ISBN:4272802518
宇野弘蔵「経済方法論」ASIN: B000JALC9E、
ルイ・アルチュセール「国家のイデオロギー装置」ISBN:4879191132
マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神ISBN:4003420934




(「写真研究」の人々にとっては「突っ込みどころ満載」に、語ってみました。写真研究三十年の歴史も無視してみました。伊藤俊治港千尋飯沢耕太郎も重森弘淹も参照しませんでした。よく知らないもん)


追記:
そういえば、「マンガ研究」の人も、産業資本主義的労働価値説にとらわれてるのか? 「ぼくたちはこんなに努力して来たのだから報いられて当然! それを無視するなんて九州大学サントリー学芸賞も赦せない!」(多分、どっちも「別に赦してもらわなくてもいいですよ」と言うと思うが)と。しかし、世の中、資本主義だから、貨幣社会だから、デ・ファクト・スタンダードが基本な訳ですよ。「一生懸命やっているから云々」なんてことは、ある訳がない。

 いや、もっとわかりやすく言えば、「デキゴトロジー」が「週刊朝日」で連載開始された時の風刺漫画家たち(ペン画の名手たち!)の落胆と憤りと忸怩が、三十年後に「マンガ研究家」にふりかかって来ているだけだ。
 「なぜ夏目房之介なんかに「朝日」の連載を?!」の答えはない。なぜあんなものが好評だったのかの答えもない。きっかけは、「漱石の孫である」ということだけだっただろう。が、きっかけに過ぎない。ある程度の人気を得た理由はない。「受けていたから受けていた」に過ぎない。夏目房之介は、「名前」だけを特技としてちらつかせつつ横合いから出て来て、事後的に承認されてしまった風刺漫画家であった筈だ(夏目房之助の漫画が「業界標準」になったことはさすがにないのだが)。