形式主義者と唯物論者と変態


フレドリック・ジェイムソンが「破壊的要素に身を委ねよ!」(ニヒリズムを通過して徹底して突き進み、反対側の明るみに浮上すること)という視点で、ジーバーベルクのことを論じていた。(「批評空間」1993 No.10 ISBN:4828824561/ “In the Destructive Element Immerse”: Hans-Jürgen Syberberg and Cultural Revolution :Fredric Jameson 1990 ISBN:0415900123 その「破壊的要素」に身を委ねたジーバーベルクが、「形式」ということを言っているのを知っていろいろと思う。

「破壊的要素に身を委ねる」とは、形式主義を全うすることなのかもしれない。
歌舞伎の形式主義
金村修形式主義
パンクという形式主義
どれも「破壊的要素」に身を委ねながら、愚直な程に、保守に徹している。
スターリンらが嫌った「形式主義」とは、回帰的保守本流ニヒリズムだったのだろうか。

形式主義に相対するのは、スターリン的官流唯物主義だろうか?
そっちもあるだろう。歴史的に見て、形式主義は、官流唯物論に敗北する。そっちから突かれるとあっさり壊れるのだろう。となれば、形式主義に勝ちたいなら、官流唯物論で正面突破すれば良い。 パンク=形式主義は、タテ社会の前に敗北するのが宿命だ。粛清されるか、とりこまれるか。そんなもんだ。
しかし、スターリニズムに賭けることはできない。ありゃいやだ。官僚流のタテ社会に期待するものはない。
となると例によって第三項に張りたい。
第三項として、とりあえず思い浮かぶものに、「本物の気狂い」というのがある。
破壊的要素に身を委ねたニヒリズムではなく、本気で荒れ狂う気狂い。なにをしでかすか予測もつかない変態。道徳律の壊れたホンモノの変態。
思い浮かべているのは、アルチュセール唯名論唯物論だ。
最愛の妻を絞殺した自失したアルチュセールの有り様が、象徴的に思い浮かぶ。

歴史的には、後裔を持つことなく、一回こっきりで消えたニューヨーク・パンクがそんなものだったような気がする。
NO NEW YORK」。
実念論に回収されることを拒んだわけのわからん一回性の暴発。
「名前」しかなく「固有名」しかあり得なかったムーブメントともつかない衝動の噴出。
変態。
アルチュセール的狂態。



:例によって間違っているのだが、気に入っているので、気にせず載せてしまう。間違いを気にするような人は参照しないように。ジーバーベルクは、「様式こそ道徳性の証左である」と主張していて(四方田犬彦「映像の招喚」1983 ASIN:B000J77EAS)「形式」については語っていないようです。

NO NEW YORK

NO NEW YORK