形式と様式


用語の混乱について。
四方田犬彦が「映像の招喚」 ASIN:B000J77EAS の中で引用していたジーバーベルクの言葉(「様式こそ道徳性の証左である」)を読んではじめて気づいた。
「形式」と「様式」を混乱して使用していた。


なんで金村修のことを「形式主義」なんぞと言おうと思ったかというと、金村修が怪しげな断言で「唯物論!」とか書きたがっていたからだろう。しかしねえ・・・。彼が使う「唯物論」、なんかおかしいのですよ。唯物史観の「唯物」と、カントの「物自体」が混乱して使われいる。「それって唯物論じゃなくてカントの統制的認識論の議論なんじゃないの?」と。まあ、敢えて、マイナーな思想家の名前を出すならば、梯明秀が、唯物論の「物」を、カントの「物自体」に重ねて議論しようとしてたらしい。が、梯も上手く行ってないです。金村修が梯のことを知っているとも思えないし。
唯物論の振りをしやがって。てめえいったいなんだ?」→「さては形式主義者だな?!」というのは、実にいいかげんなレッテル貼りです。スターリニズム的冗談のようなもの。


形式主義」がどのようなものかと言えば、函数だけを使って構築されるような手法のことでしょう。
作家が抱えているのは、ある函数だけ。代入されるものは任意であって、なんでも良い訳です。そこに入るものは、花びらだろうが子どもだろうが老人だろうが関係ないし、素材の方に(写真の場合は被写体?)に対する思い入れはほぼ意味がない。そのつどのたまたまカメラの前を素通りしたものが代入される。それを一定に固定された函数が処理して吐き出す。したがって、「なぜこれを撮ったのか?」「なぜ花びらと電車と子どもを並べるのか?」と問いかけることが無用になるような写真でしょう。写真家が抱えているのは、一定した形式だけの訳で、その形式/函数に則って、被写体が処理されただけの訳です。


で、「原美樹子も金村修も吉野英理香も形式的には同じじゃねえか。原美樹子が形式主義者なら、あとのふたりも形式主義だろう。唯物論とかいうな!」っていう辺りが、スターリニズム的冗談に混じって、「様式」と「形式」の混乱が起きていたのだろう。
歌舞伎が形式主義かどうかは問題だが、パンクロックが形式主義だっていうのは言えてるような気がしている。代入されるのはなんでも良い訳ですよ、パンクは。「マイ・ウェイ」だろうが、「あおげば尊し」だろうが。


さて、よくわかんなくなっている。
わかんなくなっているのは、「なぜ、唯物論スターリニズムは、形式主義を嫌ったのか?」という点だ。
おそらくは、レーニンによるマッハ批判がおおもとなのだろう。なんだっけ・・・「唯物論と経験批判論」だったかな? 忘れた。その本読んでも納得できなかったのはよくおぼえている。なんか「マッハ主義は、ブルジョワ的だからいかんのだ!」とかいう粗雑な論旨だった覚えしかない。
レーニンの大雑把な批判はともかく、メイエルホリド粛清の頃に、誰かスターリニズム側からの隙のない形式主義批判はないものか・・・と思ったんだけど、「だめだからだめだ」「レーニンがだめだといったからだめだ」っていうような話しか出て来ない。こんなんで反革命だとか言われたら、形式主義者もたまったもんじゃなかろう、と思うが。
なんかないのかな。
いや、そもそもメイエルホリドたちがなんだってまた「形式主義」なんてことを言ってたのかがわかんなくなって来た。
いちど「わかんない」と思い出すとかぎりなくわかんなくなる。


「様式」と「形式」。
日本語が似てるからだろうが、似たようなものとして扱うとまずいかね?
ゴダール的にダジャレで強引につなげちゃえば、いいのかもしれないが、気になり出すと一緒くたには使えない。気づかなきゃよかった。