唐突に岡崎乾二郎について。
岡崎乾二郎ほどに評価の低い美術家を知らない。
浅田彰以外、誰も彼を評価しない。
僕も面白いと思えなかった。が、国立近代美術館で、李兎煥と並べて観た時、「おー、いいじゃん」と思った。おー、なるほど。李兎煥と並べるといいんだ、と知った。おそらくは、中村ナントカと並べてもいいんだと思う。その色彩感、その構成への意志、その情念やら内面やらへの関わりの無さが。
昨日、「らき☆すた」というアニメテレビ番組の監督交代の話を知った。
原因は、どうやら、
1)番組に於いて、パロディーを多用しすぎた。
2)そのパロディーが原典を貶めるような印象であった。
3)なにより、その番組が、不評であった。
ということが原因らしかった。
2ちゃんの書き込みとかを読むと、その監督は、舌鋒急な既存アニメの批判者らしかった。解任されたそのアニメ監督のその批評を読んで、「痛い」という感想を述べる書き込みが多かった。なるほど、と納得する感じがあった。
そこから翻って、岡崎乾二郎の評価に思い当たった。
岡崎の作品が「市場」に晒されるようなことがあったなら、同様の評価を得たのだろう、ということだ。ポスト・モダンと言えば、聞こえはいいのだが、早い話が、パスティッシュでありパロディなのだ。参照された元ネタが提示されて、はじめて、「あ、なるほど、元ネタのここに×をして、改変したんだね。へー、やるじゃん」と納得が行く作品。なるほど、頭が良いんだろう。なるほど、気が効いているんだろう。原典を参照すれば、ね。
しかし、おそらくは、欠陥も含めて、李らの作品は、存在感を持つのだ。まあ、ローリング・ストーンズがビル・ワイマンのベースを含めて評価されていたように。「キズ」「欠陥」「ここがダメじゃん」を含めて、消費者を魅了するのが、作品というものだ。「キズ」を繕ったところで、「完璧」は得られない。「キズ」があろうが、それはそれを含めて、「買いたい」という意欲を突くものなのだ。
「ダメじゃん。だって、あそこが欠けてるもん。ケッ!」という感想は、正しい。が、その欠損のあるそのそれに対抗するには、まるきり別物をひねり出すしかないのだ。マーケティングなぞしてない振りをしながら。
「私は、これしかできない。問題がある? そりゃあるだろ。それも含めて、これだけしかできない。文句があるなら、よそを当たれ。うちには、これしかない。」
修復も改善も改築も増築もあり得ない。
それにしても、オタク連は、現代美術界隈より優秀だよね。「ポストモダン」という言い逃れに対して正当な評価を下していること、ひとつとっても。当然とは言え。「買う」という「賭け」を踏まえている分、敏感なのだろう。
(いや、人材の偏差値的にも上なんだろうけど、さ。人数も圧倒的に多いし)