まとめるをめぐって



まとまらないままに。

His prose is not as flowing or rich as Tanizaki's. It is simpler and tauter, dependent on a much simpler vocabulary, and less explicit; but it is wrought with great care, and its direction is always sure. And if sometimes his sentences , or even paragraphs, seem to stand in austere isolation, it is because he is less concerned with unity and rational transition than with the cummulative effect of separate impressions or memories which are felt by him to have some deep, emotional bond between them.

(「Naoya Shiga "A DARK NIGHT'S PASSING" /EDWIN McCLELLAN TRANSLATOR'S PREFACE」)
ASIN:0006177905

手元に本がないので間違いがあるかもしれないが、内原恭彦さんが書いてた「まとめる」ということをめぐって、思い出したのは、これ。
同時代の谷崎潤一郎が外国でもよく読まれているにも関わらず、志賀直哉の翻訳なぞ殆ど読まれていないのではなかろうか? 「陰影礼賛」的な分かりやすいジャポニズムを打ち出していないという欠点も大きいだろう。いや、打ち出していない以前にわかんない人なのだ。なにせ、戦後「フランス語を国語にせよ」と主張したそうだから。なんだかわけがわかんない。そんな志賀直哉を翻訳をしようとした人間が現れたこと自体、奇蹟だが、その翻訳者にとっても、どうやら、志賀直哉の「小説」は「小説」に見えないらしい。なんでそんな風に文がつづくのか理解できないらしい。確かに「万暦赤絵を見に行って犬を買って帰って来る話」なんてわけがわからない。なんで犬? なんかの隠喩か? 主題は何だ? とか考え出すとねらんなくなっちゃう。その分からなさを柄谷行人は、志賀は「形式的構成力」を持っていなかった、として説明している。

 ここで、「構成力」が、作家の「自己の社会的安定圏」によって左右されるという指摘は、留保を要する。というのは、芥川が志賀の小説に「『話』のない小説」をみたように、志賀にとって「精緻な形式的完成」は「易々たる自然事」ではありえなかったからだ。唯一の長編を書き上げるのに数十年を要した事実一つとっても、彼が「形式的構成力」をもっていないことは明白である。ただ右の指摘において重要なのは、構成力が知的な能力や意志だけでどうにかなるような問題ではないということである。

柄谷行人日本近代文学の起源」 第6章 構成力について )
ASIN:4000264869

The claim that "constructional ability" is determined by the writer's "zone of social stability the self" required reservation, since "meticulous formal perfection" was not "an effortless and natural matter " for Shiga: it was in Shiga's work that Akutagawa saw "the novel without plot." The mere fact that it took Shiga over ten years to write his only full-length novel clearly shows that he lacked "the ability for formal construction." What is important in Yoshimoto's observation, however, is that the ability for construction is not a problem that can simply be resolved through intellectual ability or will.

(Karatani Kojin "Origins of Modern Japanese Literature")
ASIN:0822313235



形式的構成能力を欠損させたままに長編小説を書く事。数十年はかかるにせよ、可能であることは証明されている。加えて、志賀直哉にせよ、「暗夜行路」では、あるまとまりを作っている。



「ブックにまとめる」的なことを放棄して作品を推進していくこと。いや、作品にすら興味を示さないこと。僕にはよくわからない。どっかで頭としっぽをつけないと、それが「写真である」ということすら認識されないような気がするから。しかし、「構成する」ということをやり始めてみれば、すぐにわかることなのだが、実作業に入ってしまうと、「まとめる」などという枠組みはすぐに吹っ飛んでしまう。引きずられるようにして過去に引っ張り回される。二年、三年という期間に渡って撮り続けたものが、ひとつの主題でまとまっている訳がない。写真という表層は過去という忌まわしい記憶と結びついており、過去は逃げようのない現在として襲いかかって来る。ぬぐってもぬぐっても手にまとわり付いて来るねばねばの訳のわからない物体を「主題」やら「構成」やらでどう始末しろというのだ? 大体が、撮りたいものを撮ることすら不可能だというのに。いや、撮ろうするものを事前に措定しないというルールだけをルールに撮ろうとしているからおこる事態ではあるのだ。しかし、「イメージ通り」の被写体が欲しいなら、別に写真である必要はないだろう。「絵」で、「イラスト」で十分な筈だ。まあいい。

「石灰=国内自給」などという主題でもって作品をまとめられる安易さが信じられない。しかし、その手の安易さを選択しないと「写真」としてすら認識されないという現状もある。いや、選択という問題ではなく、「構成力が知的な能力や意志だけでどうにかなるような問題ではない」のかもしれない。どうにもならないにせよ、「石灰=国内自給」の如く三秒で理解できるものしか「写真」として認識されていないという現状はあるのだ。いかんともしがたい。


やっぱりまとまらない。



付記:
1980年初版の「日本近代文学の起源」では、第6章「構成力について」が、終章だった。2004年発行の版では、もう一章付け加えられている。第7章「ジャンルの消滅」。柄谷行人の本を予言書として読むなら、「構成」についての問いの次に来るのは、「ジャンル」それ自体の消滅ということになる。「まとめる」「まとめない」「ブック」「畠山直哉」等々の問題を成立させていた「写真」というジャンルそのものの消滅。僕が感じているのは、これだ。


http://d.hatena.ne.jp/uzi/20070130
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto/2007/02/01/5491.html


付記(070208)
柄谷行人日本近代文学の起源」の英訳を写していて、びっくりした。「構成力」の訳語は、"the ability for construction" なのだ! 僕のホームページのタイトルは、「from construction site」だ。