ナンパとエスコート


 「運動」「活動」というのは、まず「ナンパ」からはじまる。「ナンパ」からはじまり「エスコート」へ発展する。まず「誘ってみる」こと。そして相手にその気があるのなら(すなわち、あからさまな拒絶がなければ)、次の段階たる「相手を気持ち良くしてあげること」へと移る。そして、その先には・・・・・。その先はない。気持ち良くなった相手が他の誰かにも気持ち良くなって貰おうと、別の「ナンパ」「エスコート」を実行しようと思えば、それが一定の成果と言えるだろう。決して、次に「エスコート」される相手が自分ではないからと言って、苛立ってはならない。嫉妬やら「目的を見失っている!」やら「意識が低い!」といったウジャけた感情は、「運動」の妨げだ。ひたすらころがり続ける一般交換こそが、「運動」の唯一の実体なのだから、一般交換を妨害する精神の吝嗇家たち=「オレ様」さんたちには、退去願おう。精神の吝嗇家のみならず、場代やらディレクションやらで小銭をため込み、少ない通貨しか流通していない業界に於ける通貨の流通を止めて蓄財に励みたい「研究」やら研究家やらコーディネーターやらといった経済的「オレ様」=部落ボス的吝嗇家どもも当然運動を阻害する。
 95年、阪神大震災以後、うまくいっている運動のモデルは、田中"ペログリ"康夫長野県知事なのだから、クリスタルのひそみに倣うに如く無い。もっとも、西施の如き田中康夫のようにそうそう上手くいくものではないことは、誰も知るところだ。が、イデオロギーやら「キミたちは間違っている! 真の組織防衛とは・・」やら「やらなければならないのだから、やろう!」やら「そんなやり方はいかがなものか・・・」やらを掲げた、「むさい」「ビンボー」「理屈っぽい」の三重苦を抱え込んだ運動の壊滅状態を目の当たりにするにつけ、なれないながら/むかないながらも、上手くいってる人のひそみに倣っておずおずとナンパしはじめてみる以外ないのではなかろうか?
 むろん、ゲイ・カルチャーが活気を帯びる今日、「ナンパ」がヘテロ的にのみ行われる必要もなく、「誘える!」とみたら、相手のセクシャリティーに頓着せずに誘いまくるべきだろう。「ナンパ」より「逆ナンパ」の成功率の方が圧倒的に高いそうだから、「男」より「女」の方がこの任務に向いていることも確かだ。いや、食事をするにも服を買うにもそれどころか便所へ行くにも組織立って行動する彼女たちの有り様は、学ぶところが大きい。大きすぎる。
 淫乱なバイセクシャル的に野方図な「ナンパ」/おばさん的にこまめな声かけ。そして、そのチャンスが相手の苦痛に終わらないためにも、是非必要なのが、ジェントルな「エスコート」だ。この「エスコート」があってこそ、個人的な配慮が、配慮の一般交換へとスライドしていくきっかけになる。
 と、わかってはいる。わかってはいるが、やはり実践はかなりに難しい。まあ、「誘いたい人を誘ってみる」「誘ってくれた人の誘いにのってみる」という細やかな行いからはじめてみる。おずおずと。
 そう、田中康夫は、やはり「運動」の指針示してくれている。「エスコート」に重要なのは、「食べ物」「飲み物」「着物」だということ。美味しい食べ物とうまい飲み物とぱりっとした服は、かなり「運動」を円滑にする。これは明晰判明な事実のではないだろうか? 「電車男」でさえ「エルメス」をオルグするにあたって、服と食べ物に気を使って相手をハッピーにするところから開始していたし。「彼の運動が成功だったか否か」「正しくあったか否か」は問題ではない。「組織」することに成功し、「運動」が開始されたことが、重要なのだ。すべてはそれからなのだし。