劇画が孕んだ禍々しい剰余


辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」、読み出したら、盛り上がってしまった。

傑作!

手塚治虫文化賞は、時々ものすごく良い選定をしてる。 第一回特別賞の「内記稔夫現代マンガ図書館館長」からして感動的な人選だったけど。 1)さそうあきら「神童」、2)吾妻ひでお失踪日記」につづいて、これ。 同時に丸尾末広 ISBN:4757739699 に賞をやってるのも見上げたものだ。 木村伊兵衛賞にも見習って欲しいもんだが・・・・ま、無理か。

辰巳ヨシヒロって、面白いと思ったことなかったんだよねえ。「子連れ狼」なんかと並んで 英訳があるって聴いてて、「なんで??? 劇画の元祖だから???」とかいう感じだったのだが、なんかあったんだろなあ、きっと。

寧ろ、神保町にあった「ドン・コミック」の店主として、僕は尊敬してた。 良い古本屋だったんだよねえ、「ドン・コミック」。
学生の頃、東西線九段下で降りて神保町お茶の水まで歩いて行って古本や中古レコードを漁るのがコースだったんだが、さんざん古本レコードみまくって買いまくって、疲れ果てて九段下駅へ向かうと最後に待ち構えているのが、一軒だけポツンと離れたところにある「ドン・コミック」の灯り。 ここが実によく心得た品揃えで、ギャーこれ欲しい! こんなんあったんだ?! うわぁこれ探してたんだよなあ!! とかいう感じで欲しくてたまらないものがギッシリだったんだが、いかんせん、ひととおり中古レコードやら廉価本やら買いまくった後で、そこまで金が残ってなくて買えなくって悲しい思いをよくしていたです。 「中野書店」ってほどに高くないけど、「まんだらけ」ってほどに安くはない価格で、品揃えが抜群に良かった印象。
あそこの店主が、辰巳ヨシヒロだって知ったときは結構びっくりしたなあ。 「辰巳ヨシヒロ、古本屋のオヤジなの?!」って感じで。 店番してるサングラスのおじさんがそうなんだろうなあ、と思いつつも、声はかけられなくて、確認したことはなかったけど、今回「著者近影」の写真見て、「あ! あのおじさんだ!」と懐かしかったです。

この「劇画漂流」、連載が「まんだらけ」のカタログ誌だったそうで、これにも、なんか感動してしまった。
マンガ史に名前は残しているけど作品は残ってない幻の漫画家「古川益三」がやってる古本屋「まんだらけ」が、やはりマンガ史的には必ず名前が出て来るけど(日本では)まるで作品の残っていなかった辰巳ヨシヒロの連載をサポートしてた!

この連載も十年余かかってるんだもんねえ、まさに渾身の一作なんだろうなあ。漫画サンデーとか漫画ゴラクとかその辺りで時々単発の掲載をしてる、つげ義春っぽい絵のさえない漫画家って思ってたけど、こうやって見直してみると、仕事が丁寧だよねえ。 丁寧な描線とコマメに集められた当時の史料とが相まって、「劇画」っていうスタイルを作るのに、辰巳たちがしていた苦心三嘆もじんわりシミ出てて、「ふーん、こんな人たちが、『劇画』を作ったのかあ」と。

「漫画に於ける映画的とは?」とか自問自答して胃液を吐くなぞ、実に無駄なことだ。史料は揃っているし、証人たちも存命中なのだ、史的に実証可能なのだから、実証すればよろしい。「劇画漂流」は、実証を兼ねつつ、当時の思い出も含めて見事に語ってくれている。実証であると同時に証言でもあり、然も、それ自体「映画的」な態度で貫かれた「まんがならざるまんが」=「劇画」にもなっている。
辰巳ヨシヒロの実証=証言によるならば、「まんがにおける映画的」をはじめたのも「手塚からの影響!」ということではなく、まさに貸本マンガを舞台に「劇画」を描いてた辰巳ら自身が、同時代的に片っ端から「映画」を見まくっていて、それらが常に話題の中心であり、憧れであり、ストーリーを直接には動かさない純粋に「映画的」で無駄なコマのたくさんある長編を描こうとして画策する様子が淡々と語られいる。
抜群の品揃えで熟考した価格だった「ドン・コミック」店主がこれを描いたっていうのは、実に納得がいく。実直で好感度の高い実証だ。実際、「映画的とは?」なんて、売れまくって完売した日の丸文庫の「影」と、売れなくって返本の山を築いたという日の丸文庫横山泰三を横に並べて比較してみれば、一目瞭然なんだろうし。後者に比べて前者が、「映画的」なまんがであり、まんが的でないまんがであり、「劇画」と自称したのだ。



「マンガ」っていうけど、僕らが魅了されたのって、「劇画」が孕んだ禍々しさだったんだろうと改めて思ったです。
フランク・ミラーなんかが認めてるのも、「マンガ」じゃなくて「劇画」の禍々しさなんだろう。
確かになんにもない人たちが描いてたんだと思う。
絵も下手だし、教養もないし、学歴もないし、政治力もないし、吊るし上げられて論駁する根性すらなかったし・・・・、なんにもない人たち。
だからこそ、PTAやら文部省関連団体はこれ幸いとばかりに「悪書」扱いできたのだ。
しかし、そんな「なんにもなさ」の中に身ひとつの迫真性は十二分にそなわっていたのが、「劇画」っていうものだったようだ。
同様のものとして思い浮かべるのは、1930年代のアメリカ南部のデルタ・ブルーズのミュージシャンたちだろうか? 確かに彼らは音痴だし破廉恥だし不届きだしクロンボだし世間のクズだった訳だけど、でもなんかあったんだと思う。
「禍々しさ」?
「迫真性」?
ともかく、なんか。
そのなんかが次の時代のロックンロールの世代を魅了していった。
同様なことが、「劇画」についても言えるんだろう。
「ヘタ」とか「ゲス」とか「バカ」とか「グズ」とか「クズ」って言えばその通りだが、でも「劇画」は、ヘタでゲスでバカでグズのクズだったからこそ禍々しい剰余のようなものを帯びて輝いていたのだ。

「劇画漂流」を読んで、ひさしぶりに「劇画」的剰余に触れた思いだ。




劇画漂流 上巻

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劇画漂流 下巻

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