蓮實重彦の語学教科書


mixiから)
 英語の勉強、面白くなって来た。やっぱ蓮實流の「身体を酷使する」方法が楽しい。フィジカルな部分が多くないと飽きる。

『フランス語の余白に』 INTRODUCTION
 この書物は、日本の大学の教養課程でフランス語をはじめて学ぶ人びを対象とした教科書である。ただし、その人びとを容易にフランス語へと導く目的で編まれてはいない。だからといってとりわけ難解な書物でもはないが、楽しいものでないことだけは確実である。
◆それがフランス語であれ何であれ、一つの外国語がやさしくしかも楽しくおぼえられることは絶対にありえない。また大学でフランス語の単位の取得を課せられた者の全員が、フランス語の達人になる必要も毛頭ない。適当に単位がとれさえすれば、ほとんどの人間にとってはそれで充分である。
◆この教科書のとりあえずの目的は、適当に単位がとれれば充分である人びとにとって、フランス語とのさして遠からぬ時期の起こるだろう訣別を曖昧なものとはせず、自分とは無縁なものと断じ、心おきなくそれから遠ざかりうるための直接の契機となることである。但し、フランス語から遠ざかるのであれば、せめて、英語で外国人との派手な喧嘩を演じうる程度の語学力だけは、各自、手に入れておいていただきたい。われわれが外国語を学ぶ唯一の目的は、日本語を母国語とはしていない人びとと喧嘩することである。大学生たるもの、国際親善などという美辞麗句に、間違ってもだまされてはならぬ。
◆にもかかわらずフランス語との訣別を容認しない人びと、または教師の制度的特権によって彼らを訣別させまいとする人びとにとって、この教科書はその利用価値をまったく欠いているわけではない。そればかりか、他の類書には見られない新たな趣向がこらされている。視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのではなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによって肉体的にそれを同化すべく作られているのだ。
◆そのために、各課の冒頭に短いテキストが置かれている。これは正しい発音で読まれ意味を正しく解釈される必要のない文章である。そうされてもいっこうにさしつかえないが、利用者諸君は、これらの文章ただ盲滅法に書き写し、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい。それが厄介だというのなら、この部分は、授業でとりあげる必要はない。あるいは、その作業を夏休みなどの長い休暇に行なってもよい。いすれにせよ、訳すことよりは、これを暗記して書けるようにすることが重要である。
◆もちろん、この部分にかぎらず、他の例文を正しく発音したいという意志は尊重されてもよい。その場合には、あたかも自分がフランス人になったように美しく読もうとする必要はない。美しく読んでもいっこうにかまわないが、それよりも、明瞭に発音すること。速く読もうとするよりは、むしろ、自分のなまりに誇りを持ちつつ、はっきり発音すべく心がけること。
◆五つの母音に馴れている現代の日本人にとって、半母音(→?-10)、鼻母音(→?-10)を含めて二十近くあるフランス語の母音を完全にマスターする事は至難の業である。また、どう努力してもできない人が、教師にも学生にも確実に存在する。それはむしろ自然な事なのだ。それ故、あまり神経質になる必要はない。
◆発音と綴字の読み方を混同しないこと。綴字の読み方は、努力すれば誰にでもおぼえられる。それを、自分にあった音で口にすればよい。それができないのは、おぼえる意志がないか、不注意であるかのどちらかである。従って、この種の困難は、個人的に孤独に解消されうる種類のものだ。しかし、その際も、知性よりは、肉体化された手の動きの反復を活用すること。繰り返すが、この書物の特徴は、視覚だの聴覚だのを経由することなく、直接、肉体を駆使すべく作られていることにある。
◆以上のような理由から、事態を視覚的に把握させるための図式はほとんど使われていない。イタリック、またはゴシックによる特徴的な細部の強調も極力避けられている。それを行なうのは、この肉体的な書物の活用者である各人の手である。
◆予習するという善意の持ち主のために、文法説明をかなり詳しく書きそえた。但し、編者にとってはじめての試みでもあり、かつ編者の非力も加わって、そこに間違いがまぎれこんでいることもおおいにありうる。その折には、担当教官は涼しい顔でその誤りを指摘し、より適切な説明を加えてくださればそれでよい。説明、例文の欠落についても同様の処置をとられたい。
◆巻末に二種類の練習問題がそえられている。いちおう、そらぞれの課に対応してはいるが、その課で学んだ知識のみで解決しうるものとは限らない。外国語の習得に必要とされるのは、自分では知らないはずのこのとがふとわかってしまうという特殊な能力である。この能力は、自分では知っているはずのことがふとわからなくなってしまうといういま一つの能力とともに、もっとも重要なことがらである。日本語を語り、聞き、書き、読む場合にも発揮されるべきこの二重の資質を欠落させた人間は、決して言葉を肉体化することはできない。

 蓮實重彦が作った教科書の序文。2chで拾った。 学生の頃に聴いた噂だと、教養で蓮實が当たったクラスは悲惨だったらしい。クラスのうち単位が修得できるのは、4〜5人、あとは全部再履修。東大生の80%以上が落第する語学授業・・・。

 この「肉体を酷使する」「盲滅法書き写す」という語学修得法がフレーズとして気に入っている。加えて「それがフランス語であれ何であれ、一つの外国語がやさしくしかも楽しくおぼえられることは絶対にありえない。」という一節は絶対正しいと思う。
 そして、「但し、フランス語から遠ざかるのであれば、せめて、英語で外国人との派手な喧嘩を演じうる程度の語学力だけは、各自、手に入れておいていただきたい。われわれが外国語を学ぶ唯一の目的は、日本語を母国語とはしていない人びとと喧嘩することである。大学生たるもの、国際親善などという美辞麗句に、間違ってもだまされてはならぬ。」という提言にも納得。アーティストまた然り。「日本語を母語としない人々と喧嘩する」ために語学を必要としている。

「それがフランス語であれ何であれ、一つの外国語がやさしくしかも楽しくおぼえられることは絶対にありえない。」のだから、「二ヶ月で簡単上達法」をうたう一万円(!)もする教材は絶対あり得ない。なにかウソがゴマカシがある。
 ほんと多い! mixiに多いのか、なんなのか。「英語」関連のコミュからの足跡を辿ると起業家さんグループに行き当たる。起業家さんたちの格好の材料なんだろなあ、「やりたいことで年収百万円アップ!」と同程度に。