「見る」という「五衰」



 彼は凍ったように青白い美しい顔をしていた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。
 しかし、眺めることの幸福は知っていた。天賦の目がそれを教えた。何も創り出さないで、ただじっと眺めて、目がこれ以上明晰になりえず、認識がこれ以上透徹しないという堺(ママ)の、見えざる水平線は、見える水平線よりもはるか彼方にあった。しかも目に見え、認識される範囲には、さまざまな存在が姿を表す。海、船、雲、半島、稲妻、太陽、月、そして無数の星も。存在と目が出会うことが、すなわち存在と存在とが出会うことが、見るということであるなら、それはただ存在同士の会せ鏡のようなものではあるまいか。そうではない。見るということは存在を乗り超え、鳥のように、見ることが翼になって、誰も見たことのない領域へまで透を連れてゆく筈だ。そこでは美でさえも、引きずり朽され使い古された裳裾のように、ぼろぼろになってしまう筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海というものがある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のように溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっとある筈だ。

三島由紀夫天人五衰ISBN:4101050244


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松井冬子の特集番組に於ける吉行和子のナレーションには、「写実」「狂気」「情念の世界が生まれてくる」等の単語とともに「見ること」についての言及が多く出て来た。松井冬子の「青白く美しい顔」と相まって、そのまま「安永透」を思い出した。ずば抜けた「IQ」を誇る安永透が家庭教師数名について受験勉強の末に東京大学に入学したように、松井冬子も千枚ものデッサンを美大予備校で描きつづけた末に東京芸術大学に入学したとも語られていた。そこにはなんの神秘も奇蹟も僥倖もなく、松井冬子の幼少の頃からのたゆまぬ努力が語られ、入念に化粧して毎回違う服装で決めた前向きで腰の低い少壮美人画家が映し出されいた。


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「もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっとある筈だ」と小説はじめの方では書かれているが、三島由紀夫の結論としては、「領域はなかった」ということなのだろう。「安永透」は「本多透」となり、後楽園遊園地や後楽園付近の喫茶「ルノアール」や「ゴーゴークラブ」でそれなりの悪さは積みつつも、別に悪徳に溺れることもなく、かといって燃え尽きるような宿命に翻弄されることもなく、ただ漫然と堕落することさえなく凡庸に優秀な青年に育って行き、挙げ句の果てには眺めることすらなくなった。そこには、「グロテスク」な醜怪さすらない。「見ること」を徹することは、どこまでも凡庸な出来事に終始した。


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「見ること」「見ることに徹する事」は、「五衰」の徴候に過ぎなかったのだろう。
「グロテスク」とも思えないホラーイラストっぽくそれなりの受けを期待できる松井冬子の絵や、「狂気」というよりは「スポ根」の一心不乱さを感じる松井冬子の語り口や、これまた一生懸命美術業界っぽさに徹した彼女の気恥ずかしい程に難解さを狙った文章やら・・・・、いやそれ以上に「勘弁してくれよ・・・」と言う程に勿体ぶってナレーションと音楽でTV的に演出されたNHK松井冬子特集番組!
あれが、「見ること」の本態なのだろう。それは飛翔にも透明にも行き着かず、物自体の不可触に迫ることもならず、小選挙区制代議員のような風体で停滞しつづけ、一気のアノミーを呼び寄せることすらなく、財政破綻のように決算先送りのしょぼしょぼした衰亡の徴候に過ぎないのだろう。


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「見ること」「見えること」「表象の偏差」「細部が見えること」等々。
それらにこだわることが、「減収補填債」発行行為のように思えて来てしまった。確かにそれらにこだわることは、破産先送りやら既得権益護持には役立つのだろう。無理矢理、それに徹する事は、アスリートのモチベーション維持にもつながる「前向き」って奴にも似た良い事なのだろう。
だが、それがなんだ?
「五衰」を延長してなにがどうだというのだ?
1)垢にまみれ、2)頭上の花飾りは萎み、3)汗にまみれ、4)臭気を放ち、5)居場所にいつづけて居場所のない落ち着かなさにさいなまれ続ける「五衰」の有様。
補填し続けようとも減収は減収しつづけているではないか?
見てどうなる? 見続けてどうなる?
「次へ!」。
次はないのか?