1931年ドイツのマルチチュード


ドイツの経済秩序は荒波にもまれていて、緊急法令の数かずが波がしらのように交錯している。失業は、経済政策派のプログラムをもう時代おくれにしてしまったが、いまや革命派のプログラムをも同じうきめに逢わせつつある。というのは、実際にあらゆる徴候から見て、わが国の失業者大衆によって選出されているのは、ナチ党員なのだ。これまでのところコミュニストは、この大衆との必須の接触コンタクトを、したがって革命的行動の可能性を、見いだしていない。労働者のインタレストをあらゆる具体的な意味で代表することは、〔労働〕予備軍(1)がファンタスティックなまでに増大してしまったために、ますます改良主義的な任務になってしまっており、おそらくコミュニストにしても、社会民主党とたいして違いのないしかたでしか、その任務を果たせなくなっている。まだ企業内にいる者はだれであれ、企業内にいるというたんなる事実によって、こんにちではすでに労働貴族の側にいる。他方、失業者たちのあいだには、明らかに膨大な年金生活者――といっても、給付されるのはむろん雀の涙だが――の層が生まれつつある。賭博と無為を生活内容とし、湯治場のケチな賭博者のように俗物的にきちんきちんと日を送る、不活発な小市民のひとつの層が。
ヴァルター・ベンヤミン:ゲルハルト・ショーレム宛の書簡(1931年10月3日)ISBN:4794910754



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 失業者やら非正規雇用層やらニートやらの増大が話題になって久しいが、マルクス主義ジャーゴンで説明するなら、普通に「ルンペン・プロレタリアート層の拡大」ってことだろう。「正社員」さまは、「正社員」さまであるというそれだけの理由で敵意の対象になる時代は、別にはじめてのことではない。(2)
「賭博と無為を生活内容とし、湯治場のケチな賭博者のように俗物的にきちんきちんと日を送る、不活発な小市民のひとつの層」って、そのままにマルチチュードの説明になってそうだし。

ルンプロ層の拡大とナチ党の躍進が結びついたことは、ワイマール末期を生きた人たちはわりとよく指摘している。マルチチュードは簡単に全体主義にひっぱりこまれた。
 気になっているのは、ナチズムに先行したファシズムと、ナチズムの違いだ。
どちらもルンプロ層をよくよく吸収しえたのだろうが、しかし、体質的にまるきり違ったものであるらしい。
ヒットラーは、ファシズムへの軽蔑を隠さなかったそうだ。
彼が尊敬をもって接したのは、寧ろ、スターリン率いるボルシェヴィズムの方だったとハンナ・アレントは書いている。
2008年日本の急激拡大したルンプロ層は、退嬰化したボルシェヴィズム官僚的なお役人たちにむけた敵意を隠そうとしていない時、ボルシェヴィズムによく似たナチズム的なものでは、ルンプロ層を吸収しえないだろう。
となると、ムッソリーニ的な人物が登場して、漫才師的な饒舌とひたすら場当たり的相対主義的対応でもって事に処すファシズムが到来するってことか?
でもねえ、ファシズムは、なにも解決しないんだよね。ナチズム的な成果すら期待できないんだもん。




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(1)〔労働〕予備軍=失業者、ニートのこと。マルクス資本論」(第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」 第3節「相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産」等)参照
(2)学校についていうなら、非常勤講師と専任教員とは階級が違う。大学准教授や学芸員なぞは常に闇討ちの危険と隣り合わせに学校へ行き来すべきなのだ。ベンヤミンは、教員資格が取れなくて大学に就職できなかった人だから、ルンプロ層に所属した。ルンプロ知識人だった。彼がもうひとつの「全体主義」であるボルシェヴィズムに惹かれていたのは階級的必然かもね