身も凍るような感動だけを糧に


ボ・ガンボスのどんとが、ストーンズによるデルタ・ブルースのコピーについて語っていたのが忘れられない。
デルタブルースは圧倒的に凄い。でもストーンズによるデルタブルースへのアプローチは、その『凄いもの』を正確にトレースしたりコピーしたり「ああいう風にやりたい」とかじゃなかった。なんか『すごいもの』に触れて、『すごいな!,,,,,よし! オレも!』っていう感じでやってるのがストーンズによるデルタブルースのコピー。自分もそんな感じでやりたい、とか語ってた。
ポストモダンの減点主義に欠落してたのは、これだろう。

「それはだれそれがやってましたよね」「そんなものはまえにだれそれもやってました」から発して「前にないものを作りました」では、単に「だれそれが『ダメ』と判断して避けたもの」に似てしまう。確かに、「良い!」と感動を呼んだ作品には似ていないが、「ダメだな...」と棄てられたものにはものすごくよく似ている。前にあったものを避けて製作したつもりが、前にもいっぱいあったダメなものに似てしまう。
あの手の消去法や減点主義を根拠に作られたものを見ると、「なるほど! だから、その"だれそれさん"は、そういったことはやらなかったんだね!」とよくよく納得してしまう。
「...誰もやってないから」と斜に構えて消去法で方針を固め、びくびくと減点主義に怯えるくらいならいっそ、身も凍るような感動だけを糧に勢いだけで突っ走った方が良いだろうに。
なにより勢いだけは残るから。この「勢い」がなによりの推進力になるし、なにやらむずがゆい気がかりを残して、記憶にひっかかってくる。「なんなの?!」と。

リアリズムとか風景とかが出現する前の文学は、「先験的場への接近」としてあった。「すべての美しいものは以前あった。そこへ近づこうとする漸進過程」が文学のありようだった。この「先験的場」の部分に「すげえな」を代入すると、どんとが言ったストーンズデルタブルースへのアプローチになるような気がする。「先験的な場」にあった「花鳥風月」「風流」「わびさび」「神」「伝統」等は、キレイに消失して、同じ場所に、無形の「すげえな」という無意味な感動だけがのてっと横たわっている。

「すげえもの」の完全コピーをめざすのは無意味だ。
しかし、「すげえもの」が避けて通ったものを消去法と減点主義で採点しながら拾い集めてもしょぼくれていくばかり。
寧ろ、無形の「すげえな」に近づこうと身悶えしながら咆哮すること。