ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」十八章



ベンヤミン卒読「複製技術時代の芸術作品」レジュメ


十八章

語義)
随伴(ずいはん):何かが起きるのに伴って起きること。
淵源(えんげん):物事のよってきたるもと。みなもと。根源。
タブロー画:壁画に大して板絵。
杜絶える→「とだえる」って読ますのか? 杜絶(とぜつ)
規範:のっとるべき規則。てほん。Norm。
徴候:はっきりそれとわからせるしるし。

1)
要約)
大衆が母体となることで、芸術作品への態度が一変した
 ←量が質へと変化した。

このことへは非難ゴーゴー。

非難:1)
①芸術愛好家:精神を集中して芸術作品に近づく
②大衆:くつろぎをもとめる

非難:2)
①芸術愛好家:作品は崇拝の対象
②大衆:娯楽の種

②「くつろぎ」と ①「精神集中」は対極

定式化するならば、
①芸術作品を前に精神集中する人→作品に沈潜、作品の中へ入り込む
(伝説の中国の画家が仕上げた作品の中へ入っていくように)
②くつろいだ大衆→芸術作品を自分の中へ沈潜させる。
(大衆は海の波のようにしぶきとなって作品を囲み込む)

→②について。
建築を例にとろう。
 →建築は古来、1)くつろいで、2)集団で、受容される典型だから。



2)
要約)
始原の時代から建築は人類と伴にある。
これからもあるであろう。
建築の歴史は、もの凄く長い。
(その間、悲劇叙事詩その他多くの芸術は途絶えたり起きたりしている)

建築物は二重の仕方で受容される。

1)使用すること
2)鑑賞すること。

あるいは、
1)触覚的な受容
2)視覚的な受容

野村修訳:
「このような受容の概念は、たとえば旅行者が有名な建築物を前にしたときの通例のような、精神集中のあり方とは、似ても似つかない。」
英訳:
Such reception cannot understand in terms of the concentrated attention of a traveler before a famous building.
原文:
Es gibt von solcher Rezeption keinen Begriff, wenn man sie sich nach Art der gesammelten vorstellt, wie sie z.B. Reisenden von beruhmten Bauten gelaufig ist.
◎久保哲司訳:
「このような受容は、たとえば有名な建築物を前にした旅行者が普通行うような、精神を集中した受容の仕方から考えたのでは、まったく理解できなくなる。」


2)視覚の側の「静観」(die Kontemplation:瞑想黙想沈思)が、
1)触覚の側に存在しない。

1)触覚的な受容の側では、「注目」ではなく、「慣れ」という方途を辿る。

建築に於いて、この「慣れ」を通じての受容が、2)視覚的な受容さえも大幅規定する。

2)視覚的受容も「精神集中して見る!」というのではなく、寧ろ「なんとなく気がつく」という形でなされる。

建築に於けるような「慣れ」を通じての受容が、ある種の状況では規範的な価値を持つ。

歴史の転換期にあって、2)視覚的な静観では解決されない

1)触覚的な慣れを通じて解決されるしかない。(←具体的になんのことだろ??)



3)
要約)
「慣れ」は「寛いだ」(気が散った)人にも出来る。
のみならず
「寛いだ」(気が散った)状態で解決できてこそはじめてひとが課題の解決に慣れて来たと言える。
(←???? 具体的に何を思い浮かべてるんだろう????)

知覚に与えられた課題がどの程度まで解決可能になったかは、芸術が与えるような「寛ぎ」(気散じ)を参照することで間接的に調べることができる。
(????????)

ところで、
個々の人は、そのような課題から逃れたいものだ。
(←なに? 課題って???→ダダとかピカソとかが突きつけたものってことかねえ・・・)

故に、
芸術が諸課題のうちでもっとも困難なものに挑むのは、
芸術が大衆を動員するところに於いてだ。
(←???????意味がわからん)

それは、映画だ!

(映画に於いて大衆が今ある最も困難な課題に取り組む。「寛いだ」状態で。)

(映画に於いて大衆は、二十世紀の技術革新(=ベンヤミンのいう「第二の技術」、自然と人間との遊戯)に寛いだ状態で慣れ親しむ。)


「寛いだ受容」

すべての芸術分野の中で重要になってきている。
知覚の深刻な変化の徴候でもある。

「寛いだ受容」の練習のためには、映画が一番だ。

映画の持つショック作用は、寛いだ状態での受容に対応している。
(????????)