1978年の波多野誠


小学校の頃のことをいろいろ思い出す。
 1978年名古屋市立名城小学校六年一組担任教諭だった波多野誠の二学期過ぎの振る舞いを思い出した。

 1978年の二学期、この学級はやたらと自習が多くなった。
 学級は自習させつつ、波多野誠は、教室内で堀江まやさんにぴったりくっついて、版画の指導をしていた。完全なマンツーで。他の生徒から見えない一番後ろの席で。なにやらごそごそと。
 堀江さんの絵を名古屋市の小学生向けポスター公募展に出すにあたって、「版画にした方がいい」と波多野誠が判断して、版画製作を指導すべく一日中横にぴったりくっついて指導をしていたのだ。堀江さんの絵は、数ミリ幅の細い線を何本も何本もシャープペンで引き、その線を細い細い筆でオレンジや緑の原色に塗り分けた絵だった。波多野誠の考えでは、細かな線を際立たせるためには絵の具で塗り分けるよりも版画の方がいいというような趣旨だったのだろう。わからんでもない。わからんでもないが、問題は、波多野誠が 愛知教育大のバスケットボール部あがりの体育会系教師で美術についてなにを知っている訳もなく、細かな細工をする版画技術についてのメチエなぞとはまるきり無縁だったことだ。波多野誠は、ベニヤ板を使って版を作るように指導していた。ベニヤ板を小学生向き彫刻刀でギチギチ彫って、ミリ単位の描線を何本も何本も持つ細かい細工なぞできる訳がない。その技巧なく掘り起こされ毛羽立ったベニヤ板の上に絵の具塗って画用紙を押し当ててって・・・・むちゃくちゃ適当。結果、にじむは、曲線は曲がるは、絵の具は混ざるわ、色は澱むわ・・・・ぐしゃぐしゃになって、もちろん市内小学生ポスター公募に入賞することもなかったようだ。

「なんであの時、波多野誠はあんなことをしようと思ったのだろう?」と思う時、彼の年齢が思い当たる。
波多野誠、当時29才。単に発育の良い12才の女の子の脇にくっついていたかっただけだったんだろう。181cmの長身を折り曲げ、上から覆いかぶさるようにして、堀江まやのうなじや耳の後ろや産毛を間近に感じていたかったのだろう。版画だ、公募だ、才能のためだ、は、口実だったとしか思えない。 放課後、陸上部の指導の時だけいっしょにいるのではもの足りなくなっていたのだろう。



人のセックスを笑うな」の、永作博美松山ケンイチリトグラフを刷るシーンを思い出しつつ、そんなことを思った。


波多野誠もそろそろ定年か。





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