侮辱の中に生きてゐます

強い風が吹いてそれが部屋のなかまで吹き込んだ。

もはや春かぜであった。

それは連日連夜大東京の空へ砂と煤煙とを捲き上げた。

風の音の中で母親は死んだ赤ん坊のことを考へた。

それはケシ粒のやうに小さく見えた。

母親は最後の行を書いた。

「わたし等は侮辱の中に生きてゐます。」

それから母親は眠つた。

中野重治「春さきの風」1928.8)ASIN:B000JBHKLW