だから勉強してってば




http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070909#p6

この手の文章を書く人が写真関係には多い。





1)

インドがアルゼンチンの位置にあっても、物価が日本と同じでも、わざわざ、そこを訪ねるんでしょうか?

いや、「アルゼンチンの位置」にあるのは、「アルゼンチン」だよ。「インド」とは呼ばない。それに「インド」の物価水準は、日本とは違うって。
「インドへ行く」というのは、インドの位置にある、インドの物価の、インドの宗教の、インドの階級社会の、インドのように生活インフラ整備の遅れた、あのインドへ行く・・・・という意味以外ないだろ。

インドは比較的近くて、物価が安くて、いいぞ。ってな話なんでしょうか?

インドが地理的に近いっていう事実はあるのか? 割りと遠い気がしていたが、日本の近くなのか? 70年代の名古屋の小学校の社会科の授業で違う風に習って、そのまま疑うことなく信じている。 日本国内を通勤ついでにうろつくよりは、比較的遠い筈だと思うが、違うのかもしれない。実際に自分で移動して確認した訳ではないから。

写真学校(写真学科)のセンセイたちは、なぜ、安易にインドや東南アジアに行って現地で「被写体」を「ハンティング」して、エキゾチックな写真をドキュメンタリーの名のもとに撮り集めて(狩り集めて)くる生徒たちを、厳しく指導しないんでしょうか?

するんじゃないの? あんまりインド行く奴、いない様子だけど。
そもそも「厳しく指導する写真学校(写真学科)のセンセイ」がそうそういるのか?っていう問題はある。問題はあるが、厳しく指導する教師は、「インドへ行く奴」に限らず、厳しく指導するだろう。
それより、「インドで撮れ!」と指導する教師って・・・・いるのか?
大体、どこへ旅行するかくらい自分で決めるだろ、写真学校の学生に限らず。
やたらと軍艦島へ連れていきたがる教師はいたが。
念のために言っておけば、軍艦島は、アルゼンチンの位置にはない。



2)

中平卓馬さんが言うように、写真は「ドキュメント」ではあっても、それ単体では「ドキュメンタリー」にはなりません。

これもよくわからん。
語源的には、

document:
a piece of paper that gives official written information about something

documentary:
a film or television program that gives facts and information about something

ロングマン英英辞典)
なんだろうから、「写真は、公文書たりえても、記録映画(テレビ番組も含む)たり得ない」ってこと?
いや、写真は、そもそも「文書」じゃないって。もちろん、映画でもないし、テレビ番組でもないし。filmを写真の感光材料のアレのこととして考えるなら、「写真は、公文書足りえても事実を記録した写真たりえない」って意味か?
「写真は、公文書だが、写真ではない」?????

安易に使われている外来語の一種として・・と考えるにせよ、

ドキュメント:
document 1)文書、証書 2)記録

広辞苑

ドキュメンタリー:
documentary 実在の出来事を、虚飾を交えることなく記録/再構成した、映像・写真・文章。

はてなダイアリー/キーワード)
写真は、文書でも証書でも映像(この場合、stillに対するmovieの意だろう)でも文章でもないので、
すなわち、
「写真は、記録たりえても、実在の出来事を、虚飾を交えることなく記録/再構成した写真たり得ない」って意味?
=「写真は、記録ではあっても、記録した写真ではない」?
?????????
外来語「ドキュメンタリー」の意味の中に、「写真」も含まれているんじゃないのか?????
・・・・・と、考えていると、船酔いに似た嘔吐感が襲ってくる。
おえっ!



1)仮想敵の論調を仮定して、仮想敵に論駁を加えるっていう方法はあるよ、確かに。聖パウロも好んで使うストア派風の論争文体だ。しかし、「いくらなんでもこんなことは言わないだろ」ってレベルで仮想敵を設定すんのは、止めて。仮想設定のレベルが低すぎて、設定してる人の方が、低能に映るから。


2)通常の意味から外れた用法でよく使われる言葉を使う時は、とりあえずのでいいから、その定義付けを明示してくれ。恣意的すぎて、意味がとれん。

写真は「ハキャプ」ではあっても、それ単体では「パキャプリ」にはなりません。異論も多いでしょうが、わたくしは、「ハキャプ」を云々の意味で使い、「パキャプリ」を(以下略)

とでも書いといてくれ。恣意的な意味付けの恣意的な言葉なんだから、語源の特定しようもない珍奇な造語にしといて貰った方がありがたい。


写真、美術関係の人には多いよなあ、この手の文章。映画関係になるとほぼいなくなる。映画関係の人は、声による通常のコミュニケーションがとれて、なおかつ文章が読めないと、最低限の製作作業にも支障を来すからなんだろう。




「インドがアルゼンチンの・・・」って文章読んで、村上春樹羊をめぐる冒険ISBN:4062002418 に出て来た「イワシ」という名前のネコをめぐる論争を思い出したんだが、今、本がみつからん。
思い出したからといって、「村上春樹の小説世界にはいってしまった」という錯覚は起きていない。「ああ、また写真関係の人の文章ね」と思っただけで。




結論:)
勉強して!
文の勉強ね。インドへ行ったり来たりするほどに金がかかって、インドに行くより遥かに手間もかかるんだろうが、勉強しないと文章は、書けるようにならないから。



と、何度書いたかわからんが、未だに写真関係はこれだもんなあ。パスポート取得申請を却下される人々に「インドで撮れ!」って言ってるようなもんなのかね。


なお、「なぜ、高校の国語教師は、厳しく指導しなかったのだろう?」という疑問は浮かばない。厳しく指導するような気骨のある国語教師を知らないからだろう。中学にはいた。東海中学の小川猛郎先生だ。しかし、理系万能な事情からか、とっても嫌われていたし、バカにもされていた。「国語能力なぞ誰にも備わっている。叩き込むに値しない」という風潮が、1979年頃にはもうあったことを知っているから、わざわざ"意識の低い"教師をどうこう言う気にはなれない。教師の方でも法的な拘束力を持つ「学習指導要領」やらなんやらでガンジガラメだったのだろうし、そんな事情を知るにつけ知らずにつけ、学生時代から教員採用試験突破に意欲を燃やすような連中になにかができたとも思えない。
サルトル」という名前を知らない文学部生、小説を一切読まない小説家養成コース学生、法華経を読もうとしない法華宗信者、資本論を読もうとしない新左翼学生運動家、マンガ以外知らない読めない"マンガ研究"・・・・そんな連中にはやまほど会って来た。「映画」だけが寧ろこの二十数年例外領域だったのかもしれない。「勉強しないと映画は撮れない」と思い込む人々が多かったのだろう。
学校教師なぞがカバーできるような状況ではない。



付記:
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070912

おまけ:心頭滅却すれば人文学もまた涼し(?)の人文科学超人をめざすのなら、山形浩生さんのコレ→http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070910#p6 稲葉振一郎さんのコレ→http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070910#p7 もフォローしてますよね。当然。それはそうと、山形さんのところの http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/yamagata/010918/の書き出し近辺、“柄谷行人が始めた(けれど最近あまり噂をきかない)宗教団体も地域通貨がどうしたこうした、という話がコアの一つになっている。” には、「キビシ〜!」と思わず笑ってしまいました。

この辺りを読んで「勉強だ」と思っている辺りがイライラする。
サルトル」を知らない文学部生も、早稲田大学文学部教授:佐々木雅発「鴎外と漱石ISBN:4838290160 は、読んでいた。「資本論」を読まない革マル派活動家も、梅本克己ASIN:B000JALMXU梯明秀ISBN:4624906012 は読んでいた。法華経を読まない創価学会の信者も池田大作の本はやまほど読んでいた。マンガ研究も夏目房之助の本は読んでいた。
・・・・すべては仲間内の内輪ネタだろう。「写真関係」もその手の内輪ネタを狙っているだけだから、「勉強」は必要ないということか。そんなものでは、仲間以外の「コニカ」なり、新風舍なり、リクルートなりの企業人たちを説得するにも足りないことが、なぜわからんのだろう? 
まあ、わかんないんだろうなあ。


あと、「人文科学超人」はめざしていない。僕は、「芸術家」であって、評論家でもなければ、学者でもない。「勉強」とは、最低限の教養を身につけることに過ぎない。webをうろついてもその辺りの文献は公開されていないだろう。この人が参照すべき教科書は、「必読書150」ISBN:4872336569 にとりあげられている本だ。




元教師根性で、少し懇切丁寧に指導するならば、「ドキュメント」「ドキュメンタリー」云々についても、別に中平卓馬なんていう言語野に障害を抱えた人物の意味の通らない文章なぞ引かなくても、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」ISBN:4794912668 という古典があるのだから、そっちの該当箇所を参照しつつ書けば、意味は通りやすいだろう。第6章の終わりあたりの「写真に付された説明文」についてとか、モンタージュをめぐる議論とか。ベンヤミンの関心の中心は、明らかに「写真」ではなく、「映画」に置かれているので、写真をめぐる議論は少ないのだが、中平卓馬の文章よりは得るとこが大きい筈だ。あと、ゴダール「映画史」ISBN:4480870520 の中でもいろいろ書いている。こっちも「映画」の本だが。

そういや、僕が前に書いたノルベルト・ボルツベンヤミンについて書いたことについての文章にトラックバックをつけてたっけ?
その辺りがほんとに「こいつ、ダメだなあ」と思わせるところなのだ。そんな重森弘淹写真評論賞にも落選したような文章を安易に読んで満足してないで、そのもとにあるベンヤミンに直接あたらなければ、「勉強」とは言えないだろう。日本語の翻訳文献は、これだけ充実しているというのに。その辺りの基本的な作業をしていないから、ダメなのだ。
東京綜合写真専門学校に来ていたら、泣くほど厳しく指導してやったんだが。とことん教師にめぐまれなかったんだろう。若しくは本人に学習能力がなかったか)


(推敲を含めて、改稿はする。改稿が止まった辺りが決定稿だ。いちいち誰々に報告することはしていない。フツーそうだろ? 初稿を保存するのはご苦労なことだが、初稿は決定槁ではない。世間常識的にもその筈だ。NHK関連出版社では違うのか? しかし、この手の編集を相手にしている出入りのライター諸氏も大変なことだ。他人事ながら同情してしまう。きっと「いつか刺してやる・・」という思いを胸に秘めつつ、生活のために耐えてるんだろうなあ。気の毒に)





追記:
関係ないが、僕のmixiについて触れていたので、その話。
僕のマイミクの多彩さについては、ちょっと誇らしい気持ちがある。元革マル派活動家、元解放派活動家、元親鸞会説法師、現役のキリスト教伝道師、靖国神社信奉会のメンバー、新聞記者、北京在住の政治学者、イタリア在住の旅行ガイド、フィギュアスケートの衣装を作っている人、能に詳しい証券マン、俳優、フォークシンガー、ブルース・ベーシスト・・・・。「はてな」やら「写真関係」やらでは、これだけ多彩な人々に知り合えなかっただろう。その分、遊び場としてmixiは楽しい。写真関係や美術関係めいたみょうちくりんな文章を書く人もいないし。





追記:
2010.12.17
久しぶりにログがついてたので、福居の文章を数年振りに読み返した。
「心底性格の悪いイヤな奴だよなあ」と改めて思った。


「メタボリック云々」とあるし、大平とのやりとりのことを書いてるから、写真会議の時にいたんだろうけど、まるきりわかんないんだよね、この人。
どれだろ?
まわりの人に、「福居ってどんな人?」って訊くと、「背が高い」「メガネをかけている」「人当たりの良い」というような印象を聴く。文章から来る印象とまるで違う。陰険でうざい嫌みな小男を想像するんだが。


それにしても、薄汚い性根をしている。
喧嘩をすると、その人間の人格があからさまに出る。
本当はこういう男だ、というだけのことか。