肉体に発する初期衝動




「初期衝動が見えない」。


肉体的初期衝動なしに論理展開なぞ可能なのだろうか?
いや、厳密な論理展開は、その礎石として肉体的初期衝動を要求する。

写真の連中が好きなヴィトゲンシュタインにせよ、第一次大戦時「塹壕」の悪名高い冬の湿気と、泥と、底冷えの寒さと、なにより軍靴より染み入る乾くことのない冷たい泥水と、それに起因する体力と気力のすべてを奪う足先から広がる皮膚病による肉体侵襲への反撃として書かれたものだ。
足先という末端から忍び寄る侵襲への反撃として、脳という末端から反撃したのが、「論理哲学論考ISBN:3518281011 だ。足先からの侵襲に対して脳から反撃に出て、指先という末端の奪取を試みた戦闘記録があの本だ。目玉という末端の問題として語られはじまっているようにみえるが、問題は、明らかに目玉じゃない。本営は、脳にある。

目玉の話と、ハシゴの話だけ読んでんじゃねえ。

Dass die Welt meine Welt ist, das zeigt sich darin, dass die Grenzen der Sprache (der Sprache, die allein ich verstehe) die Grenzen meiner Welt bedeuten.

なぜ、彼がショーペンハウエルなんていう評判の悪い、ダメな哲学の典型として揶揄されつづける独我論に基づくカント”批判”(カント的”批判”ではなく、左翼的な、レーニズム=スターリニズム的な”批判”による『カントの批判』。 果てには嬲り殺しのリンチ殺人へ逢着するような血なまぐさい”批判”。 すなわち都合上の不採用であり、目的上の抹殺だ)を採用しているのか。
それ抜きにあるまい。



××さんに××××の絵を教えたら、「webでみただけでも、××××なんかとは比べ物にならないほどに、技量がある」とのことだった。
おそらくそうなのだろう。
指先の鍛錬としてかなりの達成なのだろう。
しかし、××にせよ、××にせよ、そして岡崎乾二郎にせよ、感じられないのが、「肉体に発する初期衝動」の部分だ。
「脳」に本営を置き、「目玉」と「指先」を動員していることはわかる。
だが、「脳」の本営に危機意識がない。事実、危機はないのだろう。「足先」の領有が危うくなる程のしつこい寒さもなく、皮膚がふやけて破れる程の湿気も暑さもなく、指やら踵やらが、指やら踵やらに似つかなくなる程の変形を余儀なくされるような連日十時間以上の歩行走行にさらされることもない、ふかふかさらさらそよそよの安穏な室内生活が保障されているから。

足指と足裏と踵という末端を奪われたからこそ、脳という末端から反撃するのだ。
拳と筋肉の解放を奪取せんがために思考するのだ。


性器という末端の酷使という方法もあるのか。