ニッポンのモダニズムはひどい




ニッポンのモダニズムは、ひどい。
竹橋の国立近代美術館へ行くたびに思う。

平成19年3月18日(日) 
午後2時00分〜午後2時48分 《NHK総合テレビ》
「永遠の庭に挑む 〜作庭家・重森三玲が残したもの」

NHK重森三玲の特集を観て、やっぱり「ひでぇなあ」と思った。狂言廻しを宇崎竜童がやってたけど、実にちょうどいいんじゃないの? 音楽に於けるダウンタウン・ブギウギ・バンドくらいのもんなんだと思う。市松模様の苔庭って、港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカみたいなもんだもんな。わかりやすく奇を衒って俗情に訴えてみました、ってことで。

若い頃に「デッサンの勉強」なんてやっちゃうとああなっちゃうのかなあ。なんかをイラストしないと造形もなんにもできなくなっちゃうんだろうなあ。あの龍の枯山水の悲惨なこと。名古屋の東山動物園にあんな遊具があったっけ、土に半分埋まった龍だかの。
 「わぁ〜、この庭、龍にみえるぅ〜・・・」。
80年代のアタマの弱い美術系女子大生じゃないんだから。
友禅の模様を模した・・・とか。模すなよ、恥ずかしい。



庭の記録図は面白そう。
妹尾河童の「河童が覗いたヨーロッパ」ISBN:4062730618 みたいな感じで。律儀な線と精確な製図。自分で、ミレーだカッパだ、わざとへんちくりんな名前を名乗るあたりも似たようなセンスなのか? 「作庭家」としてでなく、今和次郎ISBN:4480021159妹尾河童なんかとならべて紹介してくれれば、なんの文句もない。丁寧で真面目で念のいったイラストを描く余技系イラストレーター。



 「ミレー」なんだもんね。はっきり国外は見えませんってことだ。今「ピカソ」とか名乗る人がいたら、まともな美術家だと思えって方が無理だ。「フランク永井」とか「ペギー葉山」とか名乗ってる人は、フランク・シナトラやペギー・リーと競合する気なんかまるでなかったってことだし。重森ミレーも「ミレー」なんかと勝負する気なんてまるでなかったんだろう。
 ポストモダンの"ニッポン現代美術"は、「だれでもピカソ」だった訳だが、モダンの時代のニッポンは、「私もミレー」だったということか。 「私もロダン」とか「私もセザンヌ」とか「私も董其晶」とか。"国立"近代美術館へ行くといろいろ居たことが分かる。
 いや、「ミレー」を「三玲」にしたあたりは、暴走族なセンスの先駆け? 作庭家、夜露死苦
(この辺も、宇崎竜童と通じるのか。NHKの人選、見事。)




で、なんで重森ミレーの特集なんてみたかというと、去年まで勤めていた学校(東京綜合写真専門学校)の創設者:重森弘淹のお父さんだから。
でも、がっかりした。
あの辺の全貌のよくわからないモダニストたちは、片鱗でもみると、腰から崩れる程の虚脱感がある。






80年代、平野謙たちの言った「昭和十年前後」との相似が言われていた(絓秀実とか)。 あれから20数年なのだから、50年代との相似があるのかも。ちょうど"国立"近代美術館に収蔵されているようなモダニストたちがブイブイ言わせていた時代。 ポストモダン=プレモダン的なものの流行が一段落して、モダニズムの再興? だめだめなモダニズムの。
計算があってしまう。

また、昭和のモダニズムもまた俗情との結託を断ち切れなかったように、今回もまたマンガとかJポップス(死語)とかの延長に成立するってことか。前回と同じくにドメスティックに。



と、すれば、流行するのは、ドメスティックなだめだめモダニズムでありながら、次の次の世代へと通じていくのは、その裏で密かに生産される「フィルム・ノワール」?