あるクレタ人は・・・




阿部和重「ミステリアスセッティング」ISBN:4022502444 が面白かった。
 実にいいかげんな与太話なんだけど、仕掛けが凝っている上に、こっちの情動に訴えかけて来るネタが満載なので、読んでしまう。
 いじめとかケータイとかメールとか女子高生とか三軒茶屋とかバンドとか専門学校の閉鎖とか・・・・・っていう今時の風俗の中にスーツケース型核爆弾についての荒唐無稽な話が唐突に接合されているだけなのだが、そのいいかげんな設定の与太を又聞きの又聞きって装置の中で読ませてしまう。
「・・・・っていう話を聞いたっていう話を聞いたのが十年以上前の話」。
 然も、中核になってる事件やら事実やら自体、「信じたのだが騙されていたのかもしれないがそんなことはどうでもいい」「信じてはいけないと言われていたが信じてしまった」っと、信憑性を方々でなし崩しにしながら進行していく。当然、その事件をめぐる話の話の確からしさも「信じてはいけないのかもしれないが信じてしまうしかない」と方向付けられている。しかし、すこしの実証的証拠もなく、ただの又聞きである噂話にすぎないから、騙されているのかもしれない・・・いや騙されていると常に感じていなければひどい目にあう、が、信じていなければ何も救うこともできないのかもしれない・・・・と宙づりになったまま終わる。


☆「ラッセルのパラドックス」に向けての異議申し立て小説とも言える。

あるクレタ人は、クレタ人はウソつきだと言った。

 そんなもんは矛盾でもなんでもない。ロジカルタイプの混同なぞ前提していなければ、"下流社会" やら "格差社会" やらヤンキー付き合いやら「2ちゃん」的ネタやらははとてもじゃないがこなせないという当世ニッポン的合意事項をめぐる小説。

あるクレタ人は、クレタ人は嘘つきだから信じてはいけないと言われていたが、クレタ人の言うことを信じたいと言っていたクレタ人の言うことを信じた、と言っていた、と言っていた。

 クレタ人民に向けてクレタ人が「信じなくっちゃダメなんだ!」と訴えかけている。信じていい訳がない。ネタにされるだけなんだから。しかし、信じなきゃいけない。が、信じると・・・と、確定性は揺らぎ続け、不確定を前提しながら事はなし崩しにはずるずると進む。


☆いや、本当にほんとうのところは、昨今北朝鮮核戦略やら核欺瞞やらをめぐる俗情をいじっているんだろうけど。
 核拡散と欺瞞外交が不安を煽り、そのまっただ中にあって純朴にしてお人好しな「平和憲法」遵守を掲げ、でもそれだけでは騙されてる自虐女子高生と同じなんじゃないの? と自問しつつ、そうこうするうちに切迫する極限外交の均衡が今にも崩れそうな気配を感じつつある21世紀的世情。

阿部和重って青山真治なんかとつるんでるみたいだけど、寧ろ三池崇史に近い感覚なんだと思う。三池崇史監督、哀川翔竹内力の「DEAD OR ALIVE~犯罪者~」ASIN:B00005HM70 なんかの感じ。
 あの映画もいわば、歌舞伎町内のリージョナルな小競り合いが一瞬にして地球壊滅に直結する話だ。ドロ沼の地域紛争と無際限な核拡散時代にしかあり得ない想像力だろう。




☆「スーツケース大の核爆弾」となると、ロバート・アルドリッチ監督「キッスで殺せASIN:B000BFLABW なんていう名作もあるが。
修学旅行時に広島原爆資料館で散々っぱら脅されている僕らから観ると、あの「核」はやはり古き良き東西冷戦時代の牧歌的な核兵器に映る。誰も放射能汚染で死なないし、放射能浴びてもケロイドにならないし、核融合しはじめてからとっても悠長に爆発するし。優雅だたんだねぇ、50's アメリカの核は。
(とっても好きな映画なんだけどね。マイク・ハマーの無帽が気になるけど)