ジジェクでいいじゃないか

その種の「r?el」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「r?el」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「r?el」など論じてほしくない。
蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2
http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php

 蓮實重彦の言うこともわかるのだが、ジジェクでいいじゃないか、という気持ちが強い。
 画面の情報量はそもそも無限なのだとしたら、やはりどこかで制限をかけて読み取るしかない訳で、蓮實とジジェクの差は捨象された残高の多寡に過ぎない。京大の講義で森”一刀斎”毅が、「数字にはみっつしかない。0と1といっぱいだ」と言っていたと中島らもとの対談「その辺の問題」ISBN:4889915079んじが言っていたが、蓮實重彦ジジェクとの処理量は「いっぱい」のバリエーションに過ぎない。
 と、原理的な言いがかりをつけておいて後をつづけるなら、そもそも誰も仮眠中の記号を起こす気なぞないんだと思っている。「いっぱい」なぞいらない、「1」か「0」でいいんだという操作は終盤にさしかかっている。仮眠ではなく、記号の死滅過程なのだろう。いや、記号の仮眠に乗じて、記号の虐殺が進行したということか。虐殺の実行犯は、ジジェクなどではあり得ない。
 「TV画面じゃなくてスクリーンで映像の暴力に触れろ」とかって言われたのが、20年前?  映画は、とうとうYouTubeのサイズで観るものになりつつあるのだし! あのサイズが映像のサイズになった後に来るのは、「映像の死滅」だろう。スクリーンサイズの映像の暴力がいきなり消えれば、誰もが驚くだろうが、YouTubeサイズの映像が消えても文句を言う者はいまい。スクリーンがTVのブラウン管になり、TVがパソコンのディスプレイになり、パソコンのディスプレイも一部しか映像に分け与えてもらえなくなり・・・・。次に、「ケータイ電話で映像を観る」時代が来ることが予想できる。「電話で観る映像」? それはもう大スクリーンに映し出された無限の情報量を持った記号の横溢とは別物だろう。としたら・・・・。
「1」から発せられた号令により「0」へと向けた粛正が行われている時、「0」にも似た「無限」を持ち出すよりは、たとえそれが限りなく「1」に近い「α−1」だったとしても、「α−1」を想起させる方がましだと思っているのかもしれない。すなわち、大スクリーンの復活による映像記号の横溢を夢見るよりは、ケータイ電話で観る映像の中から絶滅寸前の記号の生き残りたちを助け上げ培養して行くことの方がましだ、と。

ましだと思いながら、絶滅寸前の4×5フィルムなんぞに手を出しているのだが。YouTubeサイズに引き縮めて使うことを想定しながら。