勝つこと


いや、やはり「勝つこと」が重要なのだ!
などとは、口走れなくなってしまって、15年余だろうか?

89年頃にいろいろなものがなくなった。
そのひとつに、「勝つこと」がある。

資本主義的出世(=相対的お金持ちになること)のことを、「勝ち組」だなんだと言ってる連中は、只単に資本主義原理への敗北を甘受している敗北主義者に過ぎない。
原理そのものに、資本主義そのものに、国家主義そのものに「勝つこと」。
そんな可能性があったのだ。

いや、しかし、「勝つ」可能性なしに何ができる?
宮台真司がどんなデマを飛ばそうが、廣松渉は、「革命家」だった! 晩年に至るまで!
チョムスキーは、アナルコ・サンディカリズムを熱く語る言語学者なのだ! テレビ局の恣意的な編集に抗して。

「勝つこと」。
勝つことへの可能性なしには、認識論の「学知的」研究も出来なければ、生成文法の創始もないのだ。

勝つこと。勝つことへの可能性を開くこと。
「勝つこと」というオルタナティブ