ドイツでも他の国でも、英語のまま読んでいます


私の翻訳されてない作品の方がノルウェー語や日本語で書いている作家よりも読者が多いと思います。それは英語がますます国際語になってきているからです。ずっと書き続けてきた間もドイツやオランダでも状況はどんどん変わってきています。私の初期の作品は、ほとんどの人が翻訳で読んでいます。でも今は、若い読者のほとんどは、ドイツでも他の国でも、英語のまま読んでいますね。状況が急速に変わってきています。

カズオ・イシグロ インタビュー :「 『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと」 (「文学界」八月号)



060711
先日言ったイベント:第2回Web写真界隈トークイベント アリジゴクドットネット・スライドショウ「幻のティーンネージャーを探して」の中で森川智之さんが「Webで発表している人の展覧会へ行くとWebで見たのと同じ写真が展示されている。あれはなんなのだろう?」(大意)と、話していた。
 僕は、そもそも「誰も見ていない」事を前提にWebと関わって来た。ブログ時代には考えられないのかもしれないが、htmlでホームページを作っていた時代には、Web=ホームページというのはそういうものだったのだ。とりあえず無名の個人が「算段の平兵衛」(桂米朝)めいた写真界隈の貧乏臭いブローカーまがいの連中に二十万なりを支払わずに発表の場を持てるだけでも有難かった。誰かが見て、自分のことを知るなぞという事は奇跡の類だった。「Yahoo Jpan」なりに登録して貰う努力なしには、「ここに写真家がいます!」という情報を発信することすらできなかった。それとてたかがしれてした。誰も、知らない人のことなぞ知ろうとしない。みな、知っている人のことを知っていると確認したいだけだ。よく知られている有名人をもう一度知るためにのみホームページはあった。
 状況は一変したようだ。ブログを得て、無名の個人たちが相互に知り合えるようになり、かなり小さなコミュニティとはいえ、相互に相手の写真をよく見れるような環境が出来た。となると、おそらくギャラリー等で展示をした場合にも、常日頃Webを見ている人と同じ顔ぶれが集うことをやはり想定しておかねばなるまい。なにしろ自分のことを知るものは、Web上のページを見ている者だけなのだから、展示場に来場するのは、Webをよくよく見ている人だけなのだと知るべきだろうし。
 ではどの辺りで展示ということを考えるべきなのだろうか?

1) 「オフ会」という側面はあるだろう。
「だめ連」用語でいう「交流」だ。実際に肉体を持って発声する人々に会うため。発声器官を使ってオーラルなコミュニケイションの活性化をはかるため。

2) Web上ではあり得ない画質を見せるため。
上記イベント内で内原恭彦さんが言及していたのは、この側面だ。確かにディスプレイ上と紙の上では載せられる情報量が段違いだ。もっとも僕に限っていえば展示でもそもそもディスプレイしか使ったことがないので、関係ない。実際、Webに載せたものと同じデータを使っている。

3) Webには載せなかったものを展示する。
このことにこだわる人も多い様子だ。たとえば岡正也さん。彼のメインの作業だった四×五を使った「天然記念物」はWebでは公開されていない。大判カメラを使って日本列島を理不尽に縦断横断しながら撮影された作品の本体を知るのは、東京都写真美術館で開催された写真新世紀展へ出向いた者だけだ。いや、そこに展示されていたブックレットからして主催者側の事情によってメインになるべき写真が削られていたのだから、まだ殆ど誰もその全貌を知らないという状況なのだろう。全貌を知るためには、個人的に連絡をとって直接逢いに行くか(僕がとったのはこの方法だ)、来るべき個展を待つしかない(現在のニッポンの公立美術館の事情を鑑みれば、岡正也「天然記念物」の全貌が公立機関で公開される可能性はない)。そのような展示があるなら行くしかない。そこでしか見られないのだから。

4) ギャラリースペースに於ける仕掛けを用意して、わざわざ来たことへの労力に報いる。
いわば、小型のディズニーランドだ。自宅のTVでよくよく知っているキャラクターを今一度見るために人々は喜んで舞浜まで出向く。なぜか? そこでは、自宅のTVにはない仕掛けがあるからだ。実際に動くミッキーマウスや中に入れるシンデレラの城があるからそこへ行く。さらにはそこでしか売ってない商品も用意されている。よく知るものを再確認するための行事のための仕掛けがふんだんに用意されているからわざわざ出向く。あれの小型をやれば、それなりの労力に報いることが出来る。空間の拡がりを意識した作品配置で見せるというやり方が一般的な様子だが、実のところ、「キャプション」という仕掛けが大いに役立つ。美術館等では、キャプションが大活躍するのだが、殆ど個人の展示で「キャプション」を有効に使う人を見たことがない。九十八年に旧ニコンサロンで観た原美樹子「Agnus Dei」は、写真の大きさと配置に凝りに凝った展示だったが、実はキャプションを有効活用した展示でもあった。記憶に染み付いて離れない個展だが、あのキャプションに書かれた言葉たちの影響が大きいと思っている。

 こんなところだろうか? 年末に展示を予定している。展示を企むにあたって考えを巡らしているのは、4) の要素だ。が、やはり3) の部分も持ちたいし、可能ならば 2) の要素もいれたい。しかし、展示のために写真を撮りに行くなどという不細工なことはしたくない(たかだか半年の撮影期間で何が撮れるというのだ?)。年末の展示とは無関係に、近々小さな展示スペースに関わることになると思う。そのようなスペースを想定する時、3) の部分への妄想は膨らむ。