72年9月 ミュンヘン・オリンピック

パレスチナ・コマンドが
イスラエル人を人質に―

イスラエルにいる
100人ほどの捕虜の釈放を―

要求した

分からない

ほかに すべきことが
あったはず

考えて
あれが起きた時の状況を

あの日の帝国主義の力とは
テレビと―

競技を期待していた
20億の視聴者

だから世界が
注視しているのを利用し

"この映像を流せ"と言えた

もし拒まれたら

世界の視聴者に
こう言えたはず

"各競技の終わりに
映像を流すことを拒んだ"

ゴダール「ヒア&ゼア・こことよそ」1976 より)