杉本博司=第二帝政的写真作家


☆図書館をうろついてたら、「文学界」のバックナンバーが目に入った。浅田彰による杉本博司論「写真の終わり」を読む。
なんだか退屈。複製の複製であることをもって写真の終わりって無理がない? 写真学生なら誰もが知るように浅田が「写真の痕跡性」の例として揚げてるキャパの例からして、実は「鑞人形館」とかジオラマによる「自然博物館」と同質な、「倒れるふり」を撮ったやらせのイカモノのコピーなんだもん。杉本ってもっと俗っぽい、教養の壊滅の後に来た作家にしか見えない。ジオラマだよ? 鑞人形だよ? ドライブシアターだよ? ウエストポーチつけてデジカメ提げた老人たちや車をおりるのも面倒な中産階級の家族連れが物見遊山ででかける場所ばっかじゃん。
 とか思いつつ途中でやめて、他のをごそごそやってたら、蓮實重彦の「喜歌劇とクーデタ」が出て来た。面白かった。マルクスの言う「笑劇」(ファルス)ってよくわかんなくて、なんとはなしに「8時だよ!全員集合!」とか「オレたちひょうきん族」とかのコントを思い浮かべていた。具体的にはオッフェンバックとかなんだ。ワーグナーの本格オペラに対して、下等な娯楽がオッフェンバックオペレッタ。なるほど。「帝国の陰謀」って読んで面白かった筈なのに、全然忘れてる。いろいろ全部忘れてる。
 蓮實の「第二帝政」論で論じた方が、杉本博司のセンスには近い筈。ジオラマもその時代の産物なんじゃなかったっけ? 悲劇ではなく笑劇として生じたような文化(ジオラマ)を、さながらマクシム・デュカンが撮影したエジプトピラミッドであるかのような振りをして克明に撮影したのが、杉本の出発。そのうち、本気でそのイカモノたちが古代遺跡であるような錯覚に陥り出し(剥製のしろくまスフィンクスに見え始め!)、本物の古代からの遺跡である「海」や規模においてピラミッドに劣らぬ未来の遺跡たる現代建築を撮影しだして、その上日本的神殿まで建築してみたくなってしまった、ってのが杉本のストーリーだと思う。いわば自覚的にマクシム・デュカンの複製として出発したつもりがいつのまにか本物のデュカンになることをめざしてしまった作家。「笑劇こそ現代の悲劇」のつもりがいつのまにか「ほんものの悲劇をめざす笑劇」という「笑劇の二番煎じ」に転じてしまった例。「凡庸」の最終再生産である可能性は高い。
嘗て、絓秀実が、蓮實重彦「凡庸な芸術家の肖像」について、「凡庸/愚鈍」の図式は、マルクス/ニイチェ/フロイトの十九世紀三人衆を視野に入れると崩れるのではないか?と書いていた。そして、現代には相対的聡明たるマクシム・デュカンすらいないのではないか?と。とびぬけた聡明たるマルクスフロイト/ニイチェのような存在も、ほんものの愚鈍たるフローベールのような存在も持つことが叶わず、それどころか相対的聡明=凡庸たるデュカンすらもつことがかなかった現代が、ようやく手にした本物の「相対的聡明=凡庸な作家」が杉本博司だと考えると浅田彰の熱狂ぶりとも辻褄があうし納得できる。
だから、杉本博司は、浅田彰が主張するようなニエプスとかダゲールとかと相対する位置にいるのではなく、デュカンを逆さから実行する位置にいる。「写真の終わり」ではなく「十九世紀写真への遡行」?


☆昨日、「フラニーとゾーイ」を完全に忘却してることを発見。「フラニー・・・」として覚えていた物がどうも「シーモア」のような気がしてきて。図書館へ。近所の図書館にはなかった。中央図書館へ行くのは、雨がやだなあ・・と思っていたら、研究書はあったので、あらすじ確認。

 自意識のかたまりのような美人女子大生が男子学生にやりこめられて鬱になって気絶して、二日後に兄から「みんな、ふとっちょのおばさんなんだから、キミがやさしくしてやらないといけないよ」とやさしく諭されて回復する

 思い出した。これ読んで「サリンジャー、おえっ!」と思ったのだった。
 この話が成立するためには、フラニーが「美人女子大生」である必要がある。今や世界中不器量なフラニーで満杯。内省や再思考や論迫は面倒なので面倒臭くなったら話は中断してトイレに入ってもっと面倒になると気絶して済ます自意識のバケモノたち。フラニーが東洋思想に逃げ込もうとしたように、神秘主義は彼女たちに優しい。神との対話やらニルヴァーナやらは、他者との接触を回避できるからね。
 「死ぬまで便所にこもってろ、バカ」と思ったのは、高校生の頃だっけ?