初心に戻って理屈をこねる


「初心に戻って何も考えずに撮る! 理屈じゃないんだ、写真は!」と行けば、ラクチんだが、初心に戻ると、山ほど勉強してひたすらややこしい理屈をこねなければならないから面倒くさい。

それにしても、「表象文化論」とかで満足できる連中が羨ましいよね。
あの手の半端な認識論ゴッコで、理不尽な行為に駆り立てられる連中がいることと、駆り立てることができると信じている連中がいることに、驚く。
あんなもん並べるくらいなら、「押忍! 撮るだけっす! 押忍! 自分、難しいことはわかりません! 押忍!」ってやってる方が、理不尽な突進力につながるだろうに。
そうしてみると、昭和に流行った「リアリズム論」は、撮影に駆り立てるのに便利な理屈だったのかもしれない。「現実に相即した写真を!」っていうんだから、家から出て乞食なり労働者なり古寺なりを撮るしかないもんね。通勤途上で街角スナップして ”ネットサーフィン”してリンクをコピペしてたんじゃあ、「現実を直視せよ!プチブル労働貴族め!」と罵倒される状況。
考えるとちょっと愉しい。まあ、起こるとしても十年後かな?


ニッポンですらデモが起きてるくらいだもんな、「リアリズム!」とかって謳うとなんかの動力になる下地は出来つつあるわな。
となると、ルカーチ
いや、サルトルあたりで行きたいんだが、いかんせん松浪信三郎の訳文がガマンならん。


存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

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