寺山修司「馬敗れて草原あり」に出て来たレースが気になる。
「ダービー紳士録」で、寺山は、独特の筆致でもって馬の紹介を書いてはいるものの、当日の人気はどうだったのか、レース結果はどうだったのかは、書いていない。出走前に脱稿してるんだから、当然なんだろうけど。しかし、四十年以上経ってみると、結果が気になる。
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寺山は、タカツバキ、スマノオー、マスミノル、リキエイカン、ダイシンボルガード等について書いている。
タカツバキは、抽選馬であり、血統的にも二流である。だが、どことなく粋好みに見せているのは、この馬の独特のダンディズムのせいだろう。田舎紳士、タートルネックをした埼玉出身のやくざ、キャバレーの用心棒といったムードがタカツバキにはある。だが、それだけに負けぎらいで、根性だけは図抜けている。
スマノオーは、見るからにウブな栗毛馬である。(・・・)体に似合わぬダブダブのダブルの背広を着せられた、目の美しい童貞のギャング
曲者といえば、マスミノルもまた曲者である。(・・・)出走馬中もっとも「みにくい馬」がマスミノルであることを思えば、この馬が一発必殺の手を秘めているかもしれぬと思わぬわけにはゆかない。(・・・)
「ダービーで、きれいな馬が勝ったためしがないじゃないかい」
と寿司政の板前がいっていた。(・・・)「(・・・)ダービーじゃ、マスミノルのようにアザだらけの醜馬が二着にくるというのがレースの綾なんだ」
少年時代には何をやっても、ひとより秀でていた。(・・・)ところがどうしたことか大人になってからは、往事の才気がまったく影をひそめてしまって、きわめて地味で平凡な頭になってしまった。それが、リキエイカンである。
「こわい、こわい」といいながら人を殺す殺し屋を映画で観たことがある。いつも何かにおびえていて、どことなく頼りなげで、ときには孤独の影がさす。しかし、それだけに勝負というときの凶暴さもまた抜群であり(・・・)ふだんはおとなしくて、人なつこいのが特色である。私が、ダイシンボルガードに抱くのは、そんなイメージだ。
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さて、1969年5月25日、当日は曇。馬場は不良。寺山修司があげていた馬の枠番人気は以下のとおり。
タカツバキ 4枠11番 1番人気
スマノオー 4枠12番13番人気
マスミノル 1枠3番12番人気
リキエイカン 7枠24番17番人気
ダイシンボルガード 6枠18番6番人気
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で、レースの様子は、以下。
1969年 第36回東京優駿(日本ダービー)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8216113?via=thumb_watch
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第36回東京優駿は不良馬場の中28頭立てで行われた。皐月賞優勝馬ワイルドモアが骨折により回避したため混戦模様となり、1番人気はきさらぎ賞等に勝ち12戦して3着以下が1度のみという安定感のある抽せん馬タカツバキ、2番人気は皐月賞2着馬ギャロップ、3番人気は朝日杯3歳ステークス優勝馬ミノル、ダイシンボルガードは6番人気であった。
このレースは色々なアクシデント・珍事が重なった。レースが始まるとスタート直後の一歩目で、1番人気タカツバキの蹄鉄が外れそうになり、そのままバランスを崩して転倒、嶋田功騎手が落馬し、場内は騒然となる。直線に入ると今度はダイシンボルガードの担当厩務員石田健一が係員の制止を振り切り芝コースに乱入、「俺の馬だ」と絶叫しながら旗を振る騒ぎが起こった(同馬と旗振る厩務員がコース上で一緒に写っている写真は有名である)。
直線ではハクエイホウをダイシンボルガードとミノルが追い、激しい叩き合いが演じられており、このまま決まっていれば名勝負となっていたとも言えるが、この事件により「迷勝負」になった。
結果は石田の応援が効いたのか、ダイシンボルガードがミノルにクビ差で勝利している。石田はレース後に厳重注意処分(実際には戒告であった)を受け、この件は公式記録の制裁欄にも記載されていた。また騎乗騎手の大崎昭一もレース後に競馬ファンの手により胴上げされた(レース後の胴上げは大崎が初である)。
鞍上を務めた大崎はこの時24歳で、当時としては戦後最年少のダービージョッキーとなった(現在は1971年にヒカルイマイで東京優駿を制した田島良保騎手の23歳に次ぐ記録)。
東京優駿が不良馬場で行なわれるのは、この後2009年までなかった。
(Wikipedia「ダイシンボリガード」より)
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これは想像だけど、寺山修司は、タカツバキに賭けてそう。
どうだったんだろ?
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