「あんなもん読む気がしない」の無限連鎖

 彼女は赤くなった顔で言った。
「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていて――なにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてるんだから、あんなもん読む気がしない」
 彼女が私のことをどう思っているかはわからない。人の悪いところが存分にある健全な精神をした人だから、当然「頭の悪い人たち」の部類に入れて澄ましているのであろう。だが、私は傷つくということもなく、そうよ、そうよ、と彼女と同じように赤くなった顔でしきりにうなずいた。

水村美苗日本語が亡びるとき」2008 より



 では、現代の日本文学について、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」とはきすてるようにいう「才媛」の言葉と、「そうよ、そうよ」と相槌を打つ著者の姿勢をどうとらえておけばよいのか。はっきりしているのは、こうした断言や相槌を、相対的な聡明さを自覚している者たちの現状に対する無知から出た鼻持ちならぬ思い上がりだと批判することは何の意味もないということだ。実際、現代の日本文学を語るのであれば、中原昌也川上未映子岡田利規とまではいわずにおくが、せめて古川日出男舞城王太郎佐藤友哉などは読んでおくべきであり、それを怠っておきながら、どうして彼らが「あたしなんかより頭の悪い人たち」だと断言できるのかどうかなどと詰問することはまったく無意味なのである。ニューヨークで口にされたこの断言とそれへの相槌は、いわば文学に向けられた社会的扉のようなものであり、それがいたるところでぴたりと閉ざされてしまっているのは、いささかもこの「才媛」と著者の個人的な意思によるものではないからだ。あるとき以来、日本文学は、個々の作品の質や出来映えを超えて、社会の中で、誰もが自分「より頭の悪い人たち」によって書かれていると見なしがちな環境となってしまっているのであり、いま、こうしているときにも、それに似た無数の声としては響かぬ断言に対して、それに似た目には映らぬ無数の相槌が打たれているはずだ。

蓮實重彦「時限装置と無限連鎖――水村美苗日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』を悲喜劇としないために」
(「ユリイカ」 2009年2月号「特集 日本語は亡びるのか?」より)



日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で