世界は十分に奇抜すぎる




 本当は昨日「ヤンキー母校へ帰れ」http://d.hatena.ne.jp/YADA/20070211 などという真な正論ではなく「ものくさ太郎」について書こうと思っていて、家で「御伽草子ASIN:4003012615 やら花田清輝全集ASIN:B000J8JSJC やらを漁っていた。しかし、花田清輝の60年代に入ってからの文章っていうのは、面白くない。ちょっと気が効いているが、そりゃあ戦中のものが圧倒的に面白い。そこでついつい花田清輝全集第二巻ASIN:B000J8U6IO の「笑の仮面」(1940年6月)を読んだ。
 「笑の仮面」は、「お父さんが死んであたし悲しいわ。」という科白の分析にはじまるへんな文章だ。
「お父さんが死んで・・・」などという科白は陳腐であり、1936年度ノーベル賞受賞者ユージン・オニールの「そうです。亡くなりました―――お父さまは―――その情熱があたしを創った――あたしというものを始めた――お父さまはなくなりました。唯お父さまの最後が生きているだけです――お父さまの死が。それが生き返って来てあたしの傍に段々と近付き、又あたししを段々傍に引寄せて、あたしの最後がやって来るのです! どうしてあたしたち哀れな猿共は自分から離れて、言葉という音の後に隠れるんでしょう!」という科白の方が独創的だとされるが、勘弁してくれ。、この手のオリジナルな科白って今の時代の中では退屈でやりきれない。、芝居の中ではありふれた言いようだから、とつづき、

 奇抜な文句を探す芸術家よ、それでなくとも今日の世界は、私たちにとって十分に奇抜すぎる。そうして私たちは奇抜さに食傷している。逆の道を行こうではないか。平凡な文句を―――つかいふるされた言葉を、私たちはひたすら求めようではないか。紋切型といえば語弊がある。それは心理学的にいえば、常同性印象、リップマンのいわゆるステロタイプである。奇抜な表現も――非凡な工夫も、帰するところ、この常同性印象を定着するための手段にすぎない。
 今日、この現実の世界で、虚偽と真実の相違が見分けがたくなっている最大の原因は、芸術が――ヨリ正確にいうならば、プロパガンダが、私たちの周囲であまりにも幅をきかせているせいであろうが、このプロパガンダの目ざすところは、実にこの常同性印象を、自分の都合のいいように、いかにして形づくるかということにあるのである。
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 宣伝の世界では、真偽はもはや問題ではない。
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私は、やたらと真実を知りたがる人びとを、近所合壁の噂話に息をはずませている女房たちに、なんと似ていることだろうと思っていた。好奇心。全然無益で、我慢のできない代物! 見事、かれらは宣伝の餌食となる。
 かかる時、もはや毒をもって毒を制するには、ただ一つの方法しか残されていない。独創的に虚偽をもって虚偽を殺し、真実の何ものであるかを明らかにすることも、真実をもって真実を殺し、虚偽のいかなるものであるかを示すことも、同様に対した効果を期待することはできない。結局、私たちは真偽を超越した世界に住んでいるからだ。紋切型の世界に住んでいるからだ。答えは簡単である。紋切型をもって紋切型を殺す以外に手はない筈だ!


「笑の仮面」は、

以上、私は自明の理のもつ喜劇的効果について、種々の観点から書いて来たが、自明の理そのものは、喜劇的でもなく、悲劇的でもない、一つの効果を――たとえばこの論文執筆以来、絶えず私の耳に鳴りひびいていた次の歌のような効果をもつ。


泣いたとて
笑うたとて
世はさまざまよ
陸の果には
海がある
白帆がみえる


そうだ! それには疑問の余地がない! 陸の果がある! 白帆がみえる!

と結ばれている。

個人的にうんざりするのは、この「笑の仮面」をはじめて読んだのは、二十歳の頃、大学の学生読書室であり、読んだ本も同じ「花田清輝全集第二巻」であったが、二十年後に四十歳になってから読んだのも同じ「花田清輝全集第二巻」であり、かわったのは、場所が、自分の部屋であるか大学の書棚であるかのちがいくらいで、世の中相も変わらずTV番組と見紛う程に奇抜な世の中で、陸の果も沖の白帆も見えないことだ。

まあ、上の文章、単語を入れ替えるといろいろ使える。「近所合壁の噂話に息をはずませている女房たち」を「インターネット巨大掲示板の書き込みに息をはずませているネット厨たち」とか「テレビワイドショーのコメントに息をはずませているおばさんたち」とか「新聞雑誌報道に息をはずませている60代団体職員たち」とか。「似ている」んじゃなくて、まさにそのものなんだけど、どれも宣伝の餌食となり、奇抜な物言いを信じ込む。
小泉政権なんて奇抜なだけなものが圧倒的に支持されてたんだもんね。安倍教育再生とか。