内原恭彦さんが展評を書いてくれた



諸事情により転載が遅れましたが、12月17日のmixiに書いたものです。一部修正しました。

内原恭彦さんが展評を書いてくれた。
http://d.hatena.ne.jp/uzi/20061217
実に精確な批評で、こっちの痛いところにも入って来た。
しかし、金村修にしろ、内原恭彦にしろ、エポックを作ってしまう程に影響力のある写真家は、批評に優れていますねえ。写真界は、こんなに良い作家たちを持っているのに、なんで冷遇してんだろ?と不思議です。金村修内原恭彦の扱われ方って不当だと思っています。

さて、とっても精確な「表層批評」なのですが、実のところ、この展示の準備で一番きつかったのは、「深層」の部分なんですよ。近代ニッポン美術に不可欠な、「テーマ」という奴です。「表層」的には内原さんが指摘してくれた通りです。何も付け足すことはありません。が、殆ど、この展示の準備は、「深層」のテーマの部分に振り回されつづけました。そのために「表層」部分がおろそかになっていることに反論できないです。いや、そもそも実のところ、蓮實だなんだとよく引用しますが、僕自身は、実に古典的に近代的なマインドの持ち主で、予備校大学受験教育でもって基礎学力を作った人間なので、まるきり「表層」には興味が行かないのです。その能力もないし。

(やはり、プリントについて、書いておきたいことがあるので)
 展示プランを考えるに当たって、頭にあったのは、「『20世紀』最後の写真展」ということです。もちろん、「20世紀」は、7年前に終わっています。しかし、その実、未だ「20世紀的なもの」は継続しています。時間として継続しながら、始末しきれずに続いてしまっている20世紀。その「20世紀」もそろそろ終わるのだろうという予想があります。根拠は別にないです。19世紀的なもののおわりが1907年頃だったのだから、20世紀的なものの終わりは2007年頃だろうと蓮實重彦が言っていたらしいから、という程度のものです。根拠はないのですが、かなりの信憑性を感じています。そして、「写真」というものも始末されるべき、20世紀的なものだと思えています。
 始末されるべき20世紀的な写真の媒体は、まず「フィルム」という形態です。どうやら僕たちの世代が、「写真」と言えば、「フィルム」を使うものだと認識していた最後の世代になりそうです。「おまえたちは知らんのだろうが、昔な、写真はフィルムというものを使ったんだぞ。ん? なんだ、そもそも写真を知らんのか・・・・」。老年に達した僕らの世代がそう孫世代につぶやいてバカにされる姿が目に浮かびます。
 さて、内原さんが指摘している「プリント」についてどうしても書いておくべきだと思うので、書いておきます。プリントは、一流のプリンターに頼みました。おそらく大概の写真に関わる人が、彼がインクジェットを使ってプリントしたプリントを見ている筈です。例えば、現在、東京国立近代美術館で開催されている「写真の現在3/臨界をめぐる6つの試論」http://www.momat.go.jp/Honkan/PhotographyToday3/index.html に展示されている伊奈英次の大きなプリントは、僕と同じプリンターがインクジェット・プリンターを使って出力したものです。ですから、徹底して完全なプリントを作ろうと思えば、いくらでも作れるプリンターさんです。
 そもそも、谷口さんから「・・・展覧会やる?・・・」」と声をかけられ、二つ返事で「やります!」と答えた理由は、このプリンター:松岡達也さんにプリントを頼んでみたい、という思いが先行していたからでした。「最高のメチエでプリンタを使いこなせて、なおかつ通常の日本語が通じるプリンター」。そういう人に頼めるなら、プリントで展示をするのもいいかなあ、と。プリントを使った展示に興味がなかったのは、なにより金がなかったことと、ラボと関わりたくなかったことが理由でした。とにかく、ラボの人たちに通じる日本語がよくわからない。彼らには絶対僕の日本語は通じない。加えて、あの客の写真を小馬鹿にしながらの愚痴愚痴と嫌味を言いつつの仕事ぶりに関わるのがいやでした。あんな人たちにお金を払いたくない! 最近、金に余裕があります。せっかく金があるのだから、使ってしまおう。使うなら、納得のいく相手に渡したい。自身も写真作家である「松岡達也」という存在は、頼もしいものでした。だから、プリントをおねがいしました。
 しかし、内原さんが、書いていたこと(プリントが悪いこと)も事実なのだろうと後悔をこめて思っています。「やはり、フィルム・スキャニングから誰かに依頼すべきだった」と。
 「フィルム・スキャニング」は、自分でやりました。加えて、埃やキズの除去はしませんでした。これは意図的なものです。「しない。したくない」という選択です。そのようなものとして写真とずっと付き合って来ています。僕の写真には常にキズがあり埃がつもっていました。気にならなかったし、気にすべきでもないと確信していたからです。だから、「これは山田大輔の写真である」という刻印として、それらが放ってあります。これは別に言い訳ではなくそうです。「ロバート・フランク、白岡順らのフィルムのキズへのオマージュ」とでも書けば、納得して貰えるでしょうか? 「フィルム」というのはそういう媒体なのです。光も捉えるが、キズも埃も指紋も残る、放っておけば、汚いものです。僕は常にそのようなものとして「写真」を出して来ました。だから、今回もそのような選択をしました。その汚い、写真学生的には、カメラおやじ的には「処理が悪い」写真。そのような「写真」を最高のプリンターに託そう、と。
 後悔しているのは、その「意図」が不鮮明になってしまったことでしょう。しかし、「意図であった」ことははっきり記しておきたいと思います。なにより、プリンター:松岡達也の擁護のためにも。

 キズ、埃、指紋が写真に着く時代が、20世紀だったのです。なにせ、その頃はフィルムを使っていたから。しかし、20世紀はもう終わってしまいました。終わっていながら、終わりきれずに残っている20世紀的なものは、既に20世紀純正のメディアでもありません。「フィルムからのプリント」でありながらも、一度、データ化され、「インクジェット・プリンタ」という機械的吹き付け装置によって、紙に吹き付けられます。「光学的に焼き付ける」という技術は消えています。これらの写真はもう21世紀のものです。しかし、終わり切れずに=はじまり切れずにいる20世紀的なものでもあります。その由として、フィルム的な残滓が刻印されています。「これは、『20世紀』最後の写真展である」。そんな意識が「汚れ」として刻印されいるのです。

(展示のテーマをめぐる「深層」部分については、次の機会に書きます)